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備忘録(2012年11月19日)

   間違って覚えていること

   児童健全育成指導士 田中 純一

 1、働き蜂はそんなに働いていない

働きバチは、死ぬまで働き続けているかと思っていたら、そうではない。働いているのは全体の23割程度で、ブラブラしている奴らのほうが多いという。人間で言えば週休5日といったところか。

英考塾より   http://eikojuku.seesaa.net/article/202876531.html

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は間違い

『風刺詩集』第10編第356行にあるラテン語の一節

orandum est, ut sit mens sana in corpore sano

は一般には「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(A sound mind in a sound body) と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として定着している。しかし、これは本来誤用であり、ユウェナリスの主張とは全く違うものである。

そもそも『風刺詩集』第10編は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが大本の出典である。

以上の背景から、単に「健やかな身体と健やかな魂を願うべき」、つまり願い事には慎ましく心身の健康だけを祈るべきだという意味で紹介されることがあるが、それも厳密には誤りである。健全な精神については数行に渡って詳細に記述されており、ユウェナリスがローマ市民に対し誘惑に打ち克つ勇敢な精神を強く求めていたことが窺える。

一生懸命と一所懸命

1.          いちしょけんめい【一所懸命】-日本国語大辞典

〔名〕いっしょけんめい(一所懸命)

2.          いっしょけんめい【一所懸命】-日本国語大辞典

〔名〕中世、生活の頼みとして、命をかけて所領を守ろうとすること。また、その所領。一所懸命の地。*古事談〔1212?15頃〕一・六条顕季避義光于所領事

3.          いっしょけんめい の=地(ち)[=領地(りょうち)]-日本国語大辞典

主に中世、武士間で用いられた語。一所の領地で、死活にかかわるほど重視した土地。元来は、自分の名字の由来する土地(本拠地)をさしたが、のちには恩給地をも含め、自分の所領地全部をいうこともあった。懸命の地 .

 アタッチメントと3歳児神話

3歳児神話について、柏女霊峰氏が、著書「現代児童福祉論」の中で述べています。
「3歳児神話」とは,「3歳までは児童のその後の発達にとってきわめて重要な時期であり、母親が家庭で育てるべきである」とする考え方である。精神医学の領域では古くから、児童とりわけ乳幼児の発達にとって母親の存在がきわめて重要であるとする見解が主流になっていた。特にボウルビーらによる世界保健機構への研究報告が乳幼児期における母親からの分離経験がその後の児童の発達を阻害する危険性を提唱して以来、主として精神分析学者からのマイナスの影響にかんする指摘が続けられていた。」
この考え方は、世界における施設保育の是非を問う時に持ち出されます。また、保育園が持つ機能である「発達」「集団保育」「養護」にどのような関係するかということが議論され、ホスピタリズム論争をもたらしているのです。その影響は、今でも研究され、女性の社会進出が進む中、より重要な課題なのです。しかし、これは、アメリカでも研究された結果や、2001年から提案されたOECDによる、乳幼児期における用語と教育(ECEC)に示されたように、どうも「質」の問題ではないかということになっています。母性的養育の量よりも質的な欠如に問題があるとか、単に母が子どもから物理的に離れることの影響を問うのではなく,親子の相互交流の発達や質,子ども自身の特性・ストレス耐性などの諸要因を絡めた研究の重要性が主張されているようです。
柏女氏は、著作の中に「ホスピタリズムにみられる乳幼児の発達遅滞や障害は母性的養育の剥奪の結果によるものか、あるいは施設の養育環境自体の問題であるのかその検討が不十分である」とあるように、子どもへの影響は様々な要因が重なって表れるもので、何が何に影響しているのかは決めにくいものです。それは、良くも悪くも、どちらも決定づける結果は出ないような気がします。それは、最近の脳における前頭葉の発達における影響が何によって損なわれ、促されるかという研究でも同様なことがあります。たとえば、子どもがキャンプなど屋外活動をすると、前頭葉が活発に使われることはわかりますが、その中の何が促しているのかは、よくわかっていません。人は、さまざまな環境が複合的に絡み合って影響を受けていくからです。ですから、家庭がいいのか、施設がいいのかは簡単には言えないのです。
それなのに、柏女氏はこう言います。「一般にはいわゆる「3歳児神話」として定着し、これが一方では保育所に乳幼児を預けて働く母親の罪障感を生み、また、女性を家庭に留め置きたい男性側の、あるいは、女性のパート労働と同様、専業主婦の雇用調整のためのレトリックとしてしばしば用いられ、いわゆゆイデオロギー的性格をもつ結果となっている。わが国における女性就労のいわゆるM字カーブの存在もこの考え方が男性のみならず女性も含めて社会一般に受け入れられている、あるいは、受け入れざるを得ない状況に置かれている結果としてみることができる。」と分析します。
最近の研究では、むしろ保育環境(保育者と保育を受ける乳幼児との数比、保育者の質,提供される保育の内容)と家庭環境(家庭環境と安定性,保育経験前からの母子環境の状況,保育以外の日常生活経験)および乳幼児の特性等との相互的な関わりのあり方のなかで決定されると考えることが必要であるとしています。
私は、乳幼児教育の必要性は、少子社会における子ども環境の変化、子どもを支える社会の変化を考える必要があると思っています。

大津(おおつ)では「暴行罪(ぼうこうざい)」の(うたが)いで捜査(そうさ)http://mainichi.jp/feature/maisho/news/20120802kei00s00s026000c.html

 大津市(おおつし)男子生徒(だんしせいと)()けていたいじめは、とてもひどいものです。「『葬式(そうしき)ごっこ』をされていた」「自殺(じさつ)練習(れんしゅう)をさせられていた」「()んだハチを(くち)(なか)()れられていた」??などです。警察(けいさつ)は、男子生徒(だんしせいと)(くち)にガムテープをはって手足(てあし)をしばり(なぐ)ったことは「暴行罪(ぼうこうざい)」という犯罪(はんざい)にあたると(かんが)え、捜査(そうさ)(はじ)めました。夏休(なつやす)みに(はい)ってからは、男子生徒(だんしせいと)同級生(どうきゅうせい)にも(はなし)()いています。(とも)だちを(なぐ)ったり、けがをさせたり、お(かね)をおどし()ったりすれば犯罪(はんざい)になります。

自由(casio広辞苑第五版より)
 @{後漢書(皇后妃下、安思閻皇后)}心のままであること。思い通り。自在(古くは、勝手気まま意にに用いた。綏靖紀「威福(いきおい)自由(ほしいまま)なり」)「ーな選択」「−にあやつる」
 A(freedom; liberty)一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対自由は人間にはない。自由は障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識によって実現される。
 広辞苑第二版より

犯罪とは何か
暴力や体罰を考える時に犯罪や非行とは何かを考える必要があると思う。暴力や体罰は犯罪・非行とあるところは一致し、あるところでは違った面を持っているからである。
 犯罪とは何か。社会心理学特論の中で第9章に非行・犯罪の理解がある。

 犯罪とは第一に行動である。意識過程や心的内的過程そのものが犯罪的であるわけではない。問題となるのは心的過程が言語としてあるいは行動として外に顕れたときである。
 第二に犯罪は他者に影響を与える行動・社会的行動としてあることである。そしてその影響が誰かに悪影響・マイナスの影響・困った影響・悩ませる影響・苦しませる影響を与えるものである。
 第三に犯罪は加害者ー被害者関係である。他者に悪影響を与える行為者が加害者で与えられる者が被害者である。犯罪行為は両者の関係で起きるが、その両者は利害を反対方向に持ち、相互に否定しようとする関係である。
 第四に犯罪は当事者以外の第3者・裁定者が存在する。被害者に悪影響を及ぼす全てが犯罪であるわけではない。加害者・被害者と直接関係ない第三者が、これは犯罪であると認定するという異なる要素が加わることとなる。
 
 犯罪には犯行手口がある。犯行手口において加害者が犯罪を実行する場合、発生場面で被害者より優位となる方法をとる。被害者の抵抗を削ぎ、加害者側を優位とする手法は以下の三つとなる。
@加害者と被害者の関係において加害者が物理的力を行使し、犯行を可能とするもので単純で暴力的な手口
A多くの窃盗犯や万引きにみられるように犯行場面を被害者に気づかせないことである。
B詐欺犯に該当するもので加害者を被害者の協力者のように誤解させて被害者の抵抗力を削ぐ。
 以上の三つの手口があるという。
 犯罪とは何かということから考えてみると子どもたちが暴力的な行為や言動をして他人を傷つけた場合に「いったいあなたは何を考えているの」等の叱責は有意義でないと思うのである。というのは叱られるべきは「考えたこと」ではなくて「実行されたこと」だからである。犯罪であれ、暴力的な行為であれ、過失によって他人を傷つけたことであれ、「考えたこと」を叱るのではなくて、「行動されたこと」を叱るべきであろう。

ハインリッヒの法則

 産業災害研究の世界には、"ハインリッヒの法則"なるものがあり、これは「同じ人間の起こした同じ種類の330件の災害のうち、300件は無傷で、29件は軽い障害を伴い、1件は重い障害を伴っている」というものだそうです。さらに、「障害を伴うにせよ伴わないにせよ、すべての災害の下には、おそらく数千に達すると思われるだけの不安全行動と不安全状態が存在する。」

 ハインリッヒの法則で300の無傷の事故と29の軽い障害を伴う事故のときに事故の潜在危険を認知できないと1件の重い障害を伴い事故を起こしてしまうともいえます。子どもの現場も産業界の現場も似たところがあると思います。人間がいて物があり、その中でいろいろな関係性を結ぶという意味で一緒なら、当然ハインリッヒの法則は子どもの遊びの現場にも適用されると考えられます。産業界と違い子どもの遊びの現場は日々変容していますから、ある意味では産業界以上に事故の確率は高くなるとも思われます。

 お茶だしはOLの仕事ではないと言われた時代がありました。男女平等・朝、女の人がお茶を出すのは良くないと言われコーヒーマシーンが一人分を作ってくれたり、自動販売機が設置されました。小学生のトイレ清掃はなくなり、業者委託となっています。大学生はとうに自分の使った教室を清掃しません。この勢いは高校・中学まで落ちてくるかもしれません。用務員も技師となり、ゴミ拾い・草取り・枝の剪定はしないようで、除草剤を撒くのが仕事の範囲とか。


 物の見方を180度転換してみることが必要と私は思います。天が動いているのではなく、地球が動いているというコペルニクス的転換です。(地動説はガリレオ・ガリレイだと思っている人が多いようですが、コペルニクスのほうが最初で、しかもかれは説を曲げなかったので,教会により殺されています)


 コペルニクス的転換でお茶だしを考えるとこうなります。お茶は主人がお客に対するもてなしの文化である。織田信長も豊臣秀吉もお茶会をし、みずからお茶を出しました。ですからお茶を出せる人が当時は最高の教養人だったわけです。このように考えれば、お茶を出すのは実は大事な仕事となるのです。学校でも校長先生が自分でお茶を出してくださるところは良い学校が多いように思います。反対にでんとソファーに座り込んで、あごでお茶だしを命令している人をみると、本人は自分をえらいと思っているようですが、ずいぶん傲慢な人と私は感じます。平成元年に皇太子殿下が私の職場を訪問されたのですが、そのときお茶を出す係りになった人はとても喜んでいました。(話はとんでしまいますが、平成になったから、宮内庁もすぐに改革されたように私には感じられました。私の職場は上履きを使わないで、床の上を靴下のままで遊ぶ場所ですが、宮内庁では『皇太子にも子どもと同じにさせます』とつよく言い、現にそうしました。子どもの遊んでいる様子の説明も標準語で良いとのことでずいぶん私も説明が楽になりました。)話を戻します。まず上司が部下のお客さんにお茶を出してあげることから、コペルニクス的お茶だし文化の転換を図りたいと思うのです。

 NHKのテレビで昆虫達の戦略という番組がありました。アリやハチというと女王がいて、ピラミッド形のヒエラルヒー秩序で築かれているように思われています。アニメ映画「バグズライフ」でも女王を中心にきちんとした社会になっていて、それが子どもにも大人にも当然のように思われています。そしてピラミッド形の支持命令がきちんと機能していると効率的で能力が発揮できそうだという誤解が出ています。


 女王アリは実は子どもを産むのが仕事で、外に出ていないので外のことは何にも分からないのだそうです。ハチも一緒で女王バチは、巣別れの時に空を飛んで出発するけれど、それ以後は子どもを産むのに専念しているので、外部のことは分からないでしょう。それではハチやアリはどのように仕事をしているのでしょうか。実は相互援助・相互伝達が基本なのだそうです。日本ミツバチは美味しい蜜のある場所を見つけると、ハチダンスを踊り、太陽からの方向と距離をみんなに知らせます。他のミツバチはそのダンスを見て、蜜のある場所を分かるのだそうです。

 言葉や名前なんか要らないね。美味しい蜜を探しにみんなで散らばって探し、見つけたものがみんなに相互伝達して教えるのですから、実はとても効率的なのです。日本ミツバチの巣にスズメバチが襲ってくると、ミツバチ達はスズメバチをみんなで囲んでおしくらまんじゅうをするそうです。その過程の中で何匹かのミツバチはスズメバチに殺されます。でもそのうちに完全に囲んでおしくらまんじゅうをすると温度が上がり、50度くらいになるとスズメバチは死んでしまうのだそうです。日本ミツバチは50度くらいまで生きれるので、スズメバチをやっつけることができるのだそうです。このときも女王バチは別に命令をしていません。ミツバチたちの自発的なボランティア精神の本能が働くようです。協力して大きな巣を作る昆虫達の戦略は、相互伝達・相互援助・自分の能力に応じた仕事を自分の意志でやることにあるようです。 ハチやアリにできることが、なんで高等動物である人間に出来ないかと思います。指示命令のピラミッド形でないと仕事が出来ないというのは大きな誤解でないかと思うのです。本当は自発的精神と相互援助・相互伝達でほとんどのことはできるし、ボランティア精神というのはそういうことではないかと思います。


ガードナーの多重知能理論

 ガードナーの多重知能理論によれば、人間の知能は概ね8つに独立して存在しているという。

言語的知能・論理数学的知能・身体運動的知能・空間的知能・音楽的知能・博物的知能・対人的知能・個人内知能の8つである。以下は各能力の私流の解釈である。

言語的知能とは、おしゃべりが上手い知能であり、私流に解釈すると女の子は一般的に男の子よりも2歳くらいは言語的知能に優れている。また仲間とガールズトークすることはリフレッシュとなり、90分以内の昼食バイキングでも時間が足りないことがある。男は一般的にバイキングでも30分程度が限度である。

論理数学的知能とは物事を論理的に考えることができる知能で0.5÷0.1=5になることを、両辺に同じ数をかけても変わらない法則がありから(0.5×10)÷(0.1×10)=5÷1=5となると証明して納得ができることではないかと思う。

身体運動的知能とは文字通り筋肉感覚・運動感覚に優れ、身体を自由に動かすことに長けている。

空間的知能とはラジコンヘリコプターを自由に操縦できる感覚である。

音楽的知能とは絶対音感があるとか、曲を一回聴くと覚えていて演奏できるなどの能力である。

博物的知能とは動植物を見ていて、だんだんとその全体像がわかってくる能力ではないかと思う。

対人的知能とは人間関係を上手く作れることで、一般的にアスペルガー症候群の子どもは苦手で、ダウン症の子どもは優れている。

個人内知能とは自分のことを見つめることができる能力で、ユングのいう人間の心の奥底にある魑魅魍魎などを見つめるようなことができる能力ではないかと思う。

これらの8つの知能は凸凹があるにしても、全ての人間が所有している。また、それぞれの能力は関連しあいながらも独立している。このように考えると、全ての私(各個人)は他の誰よりも優れていることはないし、同時に劣っていることもない。各個人は千差万別で、それぞれに多様な価値を持っていることになる。

それぞれの知能が独立しているから、運転をしながら(身体運動的知能&空間的知能)音楽を聴き(音楽的知能)助手席の人とおしゃべりをする(対人的知能&言語的知能)は可能となる。しかし、携帯電話でメールをすることは、運転と同様に身体運動知能に関わることなので難しい。同様に聖徳太子にように助手席の人の話と後部座席の人の話を同時に聴くことは難しい。

8つの知能はこのように独立しているが、関連もしている。歌を歌う場合に、身体でリズムをとり、仲間と一緒に楽器等を使いながら歌えば、楽しく歌うことが出来るであろう。もちろん、新しい歌詞を覚えるために脳に普通以上の負荷をかけるとすると、脳はそのことに集中することが必要となる。だから、みんなに合わせるとか、リズムを付けるとか、楽器を使うとかは難しい。しかしある程度学びが進み、歌詞を一定程度理解できたならば、単純に歌詞を繰り返し暗誦するよりは、身体運動的知能や対人的知能なども取り入れながらやったほうが、能率的となる。逆に、単純な同じ繰り返しは脳に負荷がかからないので飽きがくる。子どもは飽きて、隣の子どもを突っついたり、鼻をほじったり、穴を掘ったりのいたずらをすることになる。脳がある程度の学びをしたら、脳が飽きないように身体運動的知能や対人的知能も併用することが有意義であろう。

一つの学びをすることは多重知能理論の考えからいえば、同じパターンの学び方にこだわる必要がないとも言える。ある子どもは耳から覚え、あるいは視覚的学びが好きで、またある子どもは身体を動かすことで学ぶこともある。また対人的な関係から学ぶ人もいるし、学ぶときはひたすら孤独が良いとの人もいるであろう。言語もリズムを付ければ覚えられる人もいるし、写真を撮るようにカシャカシャと1ページ丸ごと入っていく人もいるであろう。教師が話をして、子どもがノートすることだけが学習のパターンではないのである。このように考えると学ぶ内容と学ぶ対象によって学習パターンの多様化をすることが必要となる。

 創造性の原点は我慢と諦め
 創造性とか自主性とかを尊重することが大切、考える力を培うとか言われているが、現場から見ていると、反対ではないかと思うのである。そもそも創造性・自主性・考える力などを、他人が培ってやることが出来るのであろうか。創造性・自主性・考える力は、その人本人のものである。だから、他人がそれを培うことはできない。つまり、子どもの創造性・自主性・考える力を、指導者が与えることはできないのである。
 と考えるならば、大人や指導者が子どもにしてあげることが出来るのは基本的な学習(読み書き算盤)や基礎学力を培うことである。また、基本的な生活習慣の躾をしてあげることである。また基本的な人間関係の結び方を教えることである。こうしたことを教えたり、学んだりするためには、我慢と諦めの精神を持つことが必要である。我慢や諦めのできない人間は、新しい物を生むことが出来ないであろう。人生には我慢と諦めが必要で、空間的時間的時代的社会的な制約の中で生きていることを自覚して、その中でいかに生きるかを見つけることが、創造性や自主性や考える力を培うことの意味ではないかと思う。
 子どもよりも先に生まれてきた存在として、明らかに我慢をしたり諦めたりすることが必要な場面があるとすれば、それを「ダメなものはダメ」と伝えることこそが必要である。
 私もよく、崖の上から羽ばたいて空を飛ぶ夢をみる。しかしながら、それは夢の世界であり、現実世界では崖から飛び降りれば、たいていは死ぬから崖から飛び降りるのは「ダメ」である。

五感ではなくて体性感覚を磨く
 五感を磨くことが、大切と言われすぎているように思います。五感とは視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚ということですが、子ども達が学習が出来ない所以として、「良く見ていない・良く聞いていないから理解が出来ない」との指導者の声が聞えてくるからです。もし五感が一番大切ならばヘレンケラーは学習することが出来なかったでしょう。
 現代生理学の分類では人間の感覚は@特殊感覚(視覚・聴覚・臭覚・味覚・平衡感覚)A体性感覚(触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚)B内臓感覚(臓器感覚・内臓痛覚)に分けられているという。そして体性感覚が全ての感覚を統御しているというのである。したがって触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚を磨くことがが大切であると私は考えている。
 障害児の教育でけではなくて、本当の指導力のある人たちは、視覚・聴覚よりも体性感覚をうまく使っていることが多いのです。

脳はできるだけ使わない
 人間の脳は、一つのことに集中することが必要であるという。ですから、学習とはある意味では何千回〜何万回か繰り返して行うことで、実は脳を使わなくてもオートマチックに仕事ができるようになることであるともいえるであろう。つまり九九を覚えるのは、一々考えなくても7×8が56となるように脳が考えないでも、オートマチックに活動することであるともいえる。オートマチックに出来るようになるには、体性感覚を動員して身体で覚えさせることである。また繰り返し繰り返しをしなければ、定着をすることがない。同じことを何千回も繰り返すことは、飽きてしまう。飽きないで、騙しだまし脳を活動させて、(百回ごとにやり方を変える・リズムを変える・手法を変えるなどなど)その内に脳を使わなくてもオートマチックに出来るようにすることが必要である。子どもに物を教えると言うことは、ある意味ではうまく子どもをたらかす(=騙す)技術を持つことであるとも言える。真実と言う劇薬はあまり使ってはいけない。嘘と言う常備薬はいずれ効かなくなる。嘘でも真でもないことをうまく使うことも必要である。いわゆる方便が大切である。

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