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子どもの躾(2013年6月18日)

児童健全育成指導士 田中 純一

  放送大学院の人間発達コースを受講している。必修科目に『道徳性形成・徳育論』がありました。日本の文化の中に論語や儒教や江戸の考え方そして教育勅語などの影響があることを感じました。私の高校時代には『期待される人間像』などの提案がなされたり、その後『心のノート』などの発行もありました。道徳と人間を無関係にしておくことは無理であると考えるようになりました。『江戸の繁盛しぐさ』を読んだりして、私流にどんなことをやったら地域のためになるかを考えてみました。
            

三つ心・六つ躾・九つ言葉・十二文・十五理(みっつこころ・むっつしつけ・ここのつことば・じゅうにふみ・じゅうごことわり)について

江戸しぐさについて自分なりに考えたいと思う。

 三つ心(みっつこころ)はどうも『三つ子の魂百までも』に使われているように思う。それが三歳児神話となり、三歳まではお母さんが家にいて、きちんと家事や育児をすることが必要であるとの神話へと発展した。問題となることは親子関係における質的なふれあいである。たんに量的に長い時間一緒にいなければならないとのことではない。三つ心というのも数えであるから満2歳までは親子の心のふれあいが大切との意味であると私は思う。

 江戸においても、お母さんが必ずしも子育てをしたとは限らないだろう。上の子どもが子守りをしたり、近所のおねえあさん・おばさんに頼むこともあったであろう。江戸のおかみさんは多忙だったろうし、子どもの数も多かったことは間違いなさそうだ。

 三つ心とは今風の三歳児神話のように専業主婦を奨励するものではなくて、父親も含めて満2歳になるまでにおやこの絆を大切にすることを意味していると私は思う。

 ふたたび三つ心へ 新潟日報掲載『夢をまことに』より

国友村(現在の長浜市)に生まれた鉄砲鍛冶、国友一貫斎(17781840)のことを小説にした『夢をまことに』を毎朝読んでいる。一貫斎は懐中筆や気泡・テレスコッフ(望遠鏡)などを作ったりする。太陽の黒点の観察もしている。一貫斎が不順な気候による天災から逃れるすべはないかを考える。その過程で人の要素が大切と思いつく。そして基本は人への感謝の気持ちだという。

三つ心は初心である。その初心を忘れないことが大切である。満2歳までの親子のふれあいが大切であるが、基本は感謝の気持ちではないだろうか?人への感謝の気持ちを初心にかえって常に持ち続けなくてはならないと今また思う。

 以下は本日の『夢はまことに』からの引用である。

「わたしは、テレスコッフの鏡を磨きながら、ずっと考えていたのです。いったいなんのためにこれを作っているのか、と」

 それは鏡磨きの苦しみに耐えているときの実感だった。これまでいろんな武具や道具を作ってきたが、テレスコッフの鏡ほど苦労したものはほかにない。はたして本当にできるのかどうかさえよくわからず、情けなくて辛くて仕方がなかった。

 すがりつく思いで、神仏の名前を唱えながら鏡を磨くうちに、神や仏の名ばかりでなく、人の名や顔が自然と浮かんできた。

「ご先祖様はもちろん、これまで注文をくれたお大名。お武家、町人、技を教えてくれた各地の職人、鉄、銅を掘る人、製錬する人、運ぶ人、売る人、炭を焼く人、それから、なにによらず助けてくれる村の人、もちろん家族・・・わたしは大勢の人の網の目のような結びつきに助けられているのだとしみじみ思いました。

 自分のためなら、テレスコッフ作りはとっくに止めていた。世話になった人たちへの恩返しになると思えばこそ、なんとしてもやり遂げようと歯を食いしばってつづけられたのだ。

六つ躾(むっつしつけ)

 満5歳になるまでに人様に迷惑をかけない、弱いものいじめをしないとの基本的な躾を終わらしておきたいと私は思う。最近の年長児や年中児(満4歳から満5歳)は平気で他人の身体の弱みをいう子どもが多い。『デブだね』『はげているね』『おかしなかっこうだね』などである。躾とは身に美しいと書く国字である。(日本人が作った漢字)この躾が出来ていないで、頭でっかちな子どもが多いように思う。問題なのはそうした言動を親がきちんと注意できないことである。ややもすると親自体が他人に迷惑をかけたり(授業参観に親同士でおしゃべりをしている)弱いものいじめ(PTAなどで仲間に入れないなど)をしていることが多い。

 子どもも親も私たちも人様に迷惑をかけない・弱いものいじめをしないなどの基本的な躾を身に着けたいものだ。

六つ躾(むっつしつけ)その2

 躾は国字である。身を美しくと書いて躾をする漢字を日本人が作ったものである。たぶん語源はしつけ糸からであろうと思う。きれいな着物を縫うにはまず、しつけ糸で一回、仮縫いが必要となる。身を美しくするためにもある程度、方向性を示すことが必要である。 

 現代の中でどのような躾・方向性が必要であろうか?

 私は基本的なあいさつが出来ることが必要な躾の基本ではないかと考えています。おはようございます(&こんにちは・おやすみなさい)、ありがとうございました、しつれいします、すみませんでしたがきちんと言えることが大切ではないだろうか?朝夕のあいさつが出来れば笑顔で接することが出来る。ムスッとしてけんか腰では雰囲気がよくない。ありがとうございましたが言えれば他人への感謝の気持ちを持っていることがわかる。失礼しますは、お先にやめますがよろしくお願いしますとの意図がわかる。すみませんでしたは失敗で他人に迷惑をかけている自覚がある。

 あいさつは自然と身につくように何度も何度も日常生活の中で訓練する必要性がある。そして意識しないでもやれるようになることが必要ではないだろうか?

 平島公園でゴミ拾いなどのお手伝いを子どもにしてもらうことが多い。最後にキャンディなどをお礼にあげるが『ありがとうございました』ときちんと言える子どもが少しずつ増えてきて嬉しく思っています。

   九つ言葉(ここのつことば)    
 本来の意味は九歳までに、どんな人にも失礼にならないあいさつや、世辞(せじ)を覚えさせるとの意味であるというとよみがえれ江戸しぐさに書いてあります。http://www.edoshigusa.info/h22_yumekikin/menu2/content5_1.htm
 私流に解釈するとここのつは満8歳までですから、小学校3年生ということになります。小学校3年生になるまでに他人に失礼にならないあいさつが出来ることが必要ということになります。つまり自他の区別がしっかりと出来て相手の立場に立って、話すことが必要とのことになります。最近は自己中心な子どもが増えています。平島公園で危険な行為をしていて注意をしますと、『どこにそんなことが書いてあるのか?』と居直る小学生もいます。しかたなく公園での活動のルールを書いた看板を四ヶ所二設置してもらいました。 本来は自分中心に考えなければ、TPOを考えて『やってよいこと悪いこと、やってよい場所悪い場所。言ってよいこと悪いこと』は書いてなくてもわかるはずです。このことがわからない大人と子どもが増えているように思います。

 九つ言葉とは私流には満8歳までには自分中心の考えから他人を思いやることができるようになることが必要であると思います。

   九つ言葉(ここのつことば)その2

 言葉の語源は言霊から来ているとも言われています。三つ心で愛情を深め感謝の気持ちを持つと私は考えました。六つ躾をきちんとしたあいさつが出来ると考えました。九つ言葉はそれを組み合わせて時と場所と相手によって使い分ける能力を身につけることではないかと思います。

 臨床心理学で星の時間との概念があります。臨床心理学面接特論の中で大場登先生がセラピストの問いかけとコメントの中で以下のように述べられていたので紹介したいと思った。
 セラピストがずっと「この可能性・仮説にいつか触れる時がくるかもしれない」と待っていた、まさに「その機会」「その時」と感じられることがある。セラピストが抱いていた仮説にぴったりの「事件・エピソード」が生じたりする。その「時」を逃がしたら、もはや永遠にその「時」は戻ってこないような「時」は、人生の中にも、心理療法の中にもある。ドイツ語に”sternstunde”という言葉がある。文字通り「星の時間」という意味だが、いわば「運命の一瞬」とも言うべき「時」のことである。”sternstunde”はもちろん「問いかけ」「コメント」の最高のタイミングである。同じ内容の「コメント」もその「時」を逃がせば「ただの意見」になるさがる。セラピストには、絶えざる「仮説構築」の努力と、セラピー内外に生じる「時」への「自由で漂える関心・注意」そして「時」を感じとった場合の「絶対的能動性」が要請されている。日常的な場面でもこうしたことはあるものです。

子どもであっても落語で言う間であったりもしますが、そうしたものを感じ取る能力があるというものです。葬式のときに小学生中学年でありながら、はしゃいで走り回って、大声をあげているのは九つ言葉からは反していると思います。それを注意しない若い母親やおじいちゃん・おばあちゃんもいます。時と場合と相手を考えた行動ができるようになりたいものです。

具体的な手法としてはわらべ歌などをたくさん覚えてことば遊びやごっこ遊びなどをたくさんやることが必要ではないかと私は感じています。

   十二文(じゅうにふみ)

 よみがえれ江戸しぐさでは十二歳までに、『きちんと中身が伝えられる文章を書けるようにする』とあります。私はこの十二歳を満では十一歳だと考えます。江戸期と現代では数え方に違いがあることを知っておく必要があるからです。

 さて十一歳になるまでに、つまり小学校5年生までに文章を書けるということは現代流にどういうことでしょうか?私は自分のことと他人のことを客観視し、文章に表現できるとのことだと思います。年齢や発達段階にもよりますが、満6歳くらいから日記などを書き始め、(もちろんそのあとでもかまわないが)5年生くらいまでには自分のこと周りの人のことを文章に書けるようになることが大切と考えています。

 私は小学校の教員時代に10枚×学年の数だけ作文を子どもたちが書けるようにしていました。2年生と3年生と5年生の学級担任をしましたが、それぞれ20枚・30枚・50枚を最低みんなが書くことが出来ました。3年生の女の子は100枚以上書いた子どももいました。

話すことと書くこととは質的な違いがあります。それは文にするということは自分の考え方を客観視し、自分の考えを相手に伝えるためにはどのような表現が必要かをきちんと考えることではないかと思います。そんな意味から十二文の意味を考えてみました。

 十二文その2

江戸しぐさの十二文の意味には親の代わりに文を書くとのことがあったようです。このとき、親の立場に立っての文章を書くことが必要となります。自分の立場だけではなくて、親の立場に立ってみることとなります。

ところが最近では、小学校高学年になっても、子どものことなのに子どもがしゃべらず、子どもの代わりに親がしゃべりまくっているケースワがみられます。自立と自律の出来ない子ども、子離れ出来ない親が増えているように思います。自分の子どもにはちゃん付けで呼び、他人の子どもは呼び捨てにする親も多く見受けられます。

十二文は小学校後半には子どもも自立が必要だと意味ではないかと思います。

十五理(じゅうごことわり)について

 十五つまり満十四歳は中学2年生です。中学2年生になったら、そろそろ自分の進路を考える必要性があります。中学校までは子どもにとって権利教育です。親と自治体を含めて国家にとって普通教育を受けさせる義務があり、その意味で義務教育です。ここら辺が勘違いされているように思います。日本国憲法によれば日本国民の三大義務は納税の義務・勤労の義務・保護する子女に教育を受けさせる義務です。そして教育を受ける権利を行使している期間は原則的に勤労と納税の義務は免除されるのです。

 逆に教育を受ける権利を放棄した場合には勤労と納税の義務を果たすことが必要となります。私は学校に行けない子ども・行かない子どもには勤労体験をさせるようにしています。しかも日本人の働くは遊びや学びも入っていますから、子どもは元気がでます。そしてまた学びの必要性を感じて学校へ行くようになることが多いものです。

 ということで義務教育期間の間に(子どもが権利教育を行使できる期間に)世の中の基本的な理を理解して、自分がどのような進路を歩むかを考えることが必要ではないかと思います。

 高学歴高収入を目指して進路を選ぶというのは何か違うのではないかと感じます。

  三つまでは親子の
質的に深いつながりと生まれてよかったとの感謝の気持ちが大切ではないか。六つまでに基本的な挨拶の躾が出来るようにしたい。九つまでに相手のことを考えた言葉使いができるようにする。十二までに自分と他人を客観視した文を書けるようにする。十五までに自分の進路を考えることが出来るようにする。具体的に手法としては三つまでに親子の質的に高いふれあいをする。六つまでに人様に迷惑をかけない・弱いものいじめをしないことを学ぶ。十二までに日記などを書けるようにする。言葉遊びやごっこ遊びや劇遊びをやっておく。十五までに互いに自律自立できるようにする。かなと思います。


  花は可愛い。そして江戸しぐさ(2013年7月9日補記)

公園でお母さんたちと話していると、花は可愛いと話す人がいる。『は』というのは他と区別する助詞である。お母さんたちの話の中に無意識に花は可愛いが、子どもは言うことを聞かないみたいな雰囲気がある。3つ心と言うが、満2歳までの子どもは花同様に愛情をかけてやれば、それにほぼ確実に答えてくれる。花が上手く育たないのは、水のやり方、土壌(栄養)、光の具合などにほぼ影響される。もちろん花と言ったが、野菜や米や果樹なども一緒です。きちんと愛情を持って育てればそれに答えてくれる。

三つ心とは基本的に花を育てるのと一緒で三つまでは愛情関係が大切とのことではないかと思う。それは満2歳を過ぎるころからは、愛情だけでは人間の場合にはすまないことを意味しているように思う。

犬は可愛い。そして江戸しぐさ

平島公園に犬を連れてくるお母さんたちが多い。『自分の子どもより可愛い』と言われる方もいる。一番は口答えをしないことのようだ。三つ心で愛情深く育てても、社会的動物である人間の子どもは、なかなか思い通りにならないものである。誰が教えてと思うような言葉を保育園や幼稚園で覚えてきてびっくりさせられるものである。ですから六つ(満5歳=年中児童)までに基本的な躾を教えておく必要があると私は考えています。おはようございます・ありがとうございmした・失礼します・すみませんでしたなどをちゃんと言えるようにしておくことが必要であると思います。六つ躾が出来ていないと誰にでもどこでもほえて困った犬=躾の出来ていない犬と一緒ですね。

日本のお母さんは、犬の子どもも人間の子どもと同じような感情で育てるように思います。犬も母子分離が早いので(法的には45日親犬と一緒だそうですが)人間のお母さんを自分のお母さんと思う犬が多くなっています。この親子関係(人間の母親と子犬)が『自分の子どもより可愛い犬の子』となるように思います。(2013年79日補記)

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