発想の転換(2014年1月19日)

児童健全育成指導士 田中 純一

    

 
発想の転換ということで2013年の12月28日から2014年の1月19日まで書いたものをまとめてアップデートしたいと思います。
   発想の転換1 『始める前に美しく』 (活動を 始める前に 美しく)
   発想の転換2 おれじゃないもん1 (カプラでは おれじゃないもん ゆるしません)
   
発想の転換2 おれじゃないもん2 (活動は 働く学ぶ 遊びの輪)
   発想の転換2 おれじゃないもん3(やるならば おもしろくなる やりかたを)
   
発想の転換2 おれじゃないもん4 おれがやるもん(でしゃばりが 顔を出します おれやるもん)

   発想の転換3  『誰かお手伝いをして』(言わせません 余計なひと言 おれいやだ)
     発想の転換4 健康な身体に健康な心をの本当の意味は(身体は 強くなくても 心は育つ)
   
発想の転換5 何のために叱るのか?(褒めるため それが叱るの 所以なり)
   
発想の転換6 人間はほとんど考えないで行動している(手と足は 考えなくても 動いてる)

     発想の転換7 食事をなぜ急いでしまうか?(急ぎ食い ついついやるね 本能か?)
     発想の転換8 創造性の原点は我慢と諦め(我慢して 諦めるのも 必要だ)
   
発想の転換9 感情的に叱ろう(しっかりと 叱って褒めよう 心込め)
   
発想の転換10 悪い人が悪いことをするわけでもない(環境が 良ければ悪い こと出来ず)
   
発想の転換11 愚痴のこと(楽になる 愚痴をこぼせる 仲間あり)
   
発想の転換12 目そらし方略のこと(こっちみて ダメなら次に あっちみて)
     発想の転換13 ロールプレーの意外性 (見えてくる 立場を変えれば いろいろと)
   
発想の転換14 はたらくこと (動くのは 人のためつけ 働くに)
   
発想の転換15 勉強が出来ないのは頭が悪いからではなく習い方に問題が (わからない 何がわからぬか わからない)
   
発想の転換16 学習するのは脳を使わなくて物事が出来るようになるため (訓練は 苦労しなくて 出来るため)
      発想の転換17 国際化について (国際化 欧米化とは 限らない)
   
発想の転換18 互譲互助 (助けられ 助けてあげて なかよしに)


  
発想の転換1 『始める前に美しく』 (活動を 始める前に 美しく)

 『来た時よりも美しく』との提案はとても良いと思う。旅の恥はかき捨てみたいなものは困る。私は高校時代山岳部であった。里からいろいろなものを持っていく。食べた後のゴミを山へ捨ててくるのは困った問題です。

 日常活動では『来た時よりも美しく』が上手く機能しないこともある。ゴミで汚くなっているところで活動して、終わってからきれいにするのは何のためかと思ってしまうこともある。そこでいつもの場所で活動するときは『来た時よりも美しく』よりも『始める前に美しく』が良いのではないかと思う。

 カプラのワークショップに小学校に出かけた時である。小学校は内履きで生活している。カプラは素足もしくは靴下で行う。その旨を担当のPTAの役員さんにお願いしておいた。行ってみたら、素足で活動できるようにきれいにしてあった。ずいぶんと清掃に時間がかかったであろうと感謝の気持ちがわいてきた。カプラ活動を終了して、カプラをみんなで片づけた。その後の清掃は必要ない状態であった。靴下で磨いたのでかえってきれいになっていたからである。

 『始める前に美しく』の手法を広めていきたいものだ。

 

     発想の転換2 おれじゃないもん1 (カプラでは おれじゃないもん ゆるしません)

 いざ片づけようとすると『おれじゃないもん』とやりたがらない子どもがいる。児童館や児童クラブでよくある問題です。『後片付けをしてね』と提案したら、『僕たちは遊ぶ権利がある。給与もらっている先生たちの仕事でしょ』と主張する子どももいた。

 『おれじゃないもん』に対する手法を考える必要性がある。

 カプラ活動を私が重要視している所以の一つが『おれじゃないもん』に勝つための手法を使えるからだ。カプラをやるときに最初から『これからカプラをやりますが、みんなで準備と後片付けをきちんとしない人はカプラをしなくても良いし、させません。』と話しています。自分の分をやるとの趣旨ではなくて、みんなで後片付けをするということです。最初にこの提案をしておけば、『おれじゃないもん』の子どもに『じゃああなたはこれからカプラをしなくても良いのね』と言うことが出来ます。

 

     発想の転換2 おれじゃないもん2 (活動は 働く学ぶ 遊びの輪)

 一つの活動は一回転して元に戻るのが基本であると私は思っていると思います。この回転の中でだんだん質的な向上をしていくのではないかと思います。回転の中身の中に準備・学び・活動・後片付けがあると思います。言い換えれば働き・学び・遊び・働きのサイクルとなります。準備と後片付けを他人にやらせて学びと遊びだけをやるというのはちょっと違うのではないかと思うのです。学びと遊びだけが大切と子どもも大人も考えるから『おれじゃないもん』との言葉が出てくるのではとも考えられます。つまり、『おれじゃないもん』の中には、『おれが出したんじゃないもん』との意味と『おれがかたづけるんじゃないもん』との意味があるのではないかと思います。けっこう『おれがかたづけるんじゃないもん』の意味で『おれじゃないもん』と言っていることが多いように思います。そして『あなたが出して遊んだんでしょ』と言われるので『おれじゃない』と無意識で強く言い返すこととなります。

 カプラの活動と同じように準備・学び・遊び・後片付けが一連のサイクルであると訓練されていくことが必要なのではないかと考えます。

 同じ職場に働いていると同じ思いだと思っていることもあります。でもたいてい思っていることは違うものですね。児童館の職員は子どもを指導するのが仕事だから、掃除や後片付けは用務員や臨時職員の仕事と考えている人もいます。トイレ清掃やローラースケート場の片付けなどをやろうと言うと内心嫌だと思っている人も多いものです。指導だけの仕事などないものなのにね。

 少子時代で子どもにいろいろな活動を伝えようと言うと『私たちは見守れば言いだけでしょ。』口を尖らす職員もいます。『頑張ったとしても給与が変わらないのに。やりすぎはみんなの迷惑』と主張する人もいます。現場は本当に難しいですね。

 でも子どもの笑顔を見ると『やっていてよかったね』と思うものです。放課後児童クラブや児童館・保育園などにワークショップに出かけます。子どもたちが笑顔になります。すると「」付きやる気のないと言われていた職員が喜んでくれることが多々あります。

 やる気がないのではなく、やり方や子どもが生き生きすることがどんなにすばらしいことかを知らなかったということもあるようですね。

 他人のことはよく見えるのですが、自分のことはなかなか見えないものです。夫婦もそうですが。よその施設に出かけて手法を提案すると受け入れてくれるのですが、身内では難しいことが多々あります。

 仏教の用語の中で怨憎会苦(おんぞうえく)と言うのがあって、身近な人と上手くいかない苦しみがあるとのことです。(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦という四苦八苦の6番目の苦です)今まで私は特定の苦手な人がいると考えていました。でも総体として考えてみると、一人の人に対する場合でも愛別離苦と怨憎会苦は混ざっているのではないかと思います。ですから、夫婦も含めて『そんなもんよ』と思ったやるのが良いかなと63歳を前にやっと感じ始めました。

 

     発想の転換2 おれじゃないもん3(やるならば おもしろくなる やりかたを)

 トムソーヤの冒険でトムがペンキ塗りを楽しくやって見せて、仲間にペンキ塗りをしてもらうとの話があります。こんな風に上手くいくとは限りませんが、少なくとも準備や後片付けをやってくれた子どもにきちんと大人とか指導員がお礼をいうことは必要だと私は思います。せっかく片付けたのに『自分で遊んだんだから自分で片付けるのは当たり前でしょ』みたいな冷たい言い方はいかがなものかと思います。

 準備や後片付けをしたら、きちんと評価してあげる。それも上目線ではなくて、下目線(Under stand)で喜んであげれば男の子などすぐにやるものです。男の子がやると女の子もやるものです。(男の子からやるのは、女の子を個人的に褒めたり叱ったりするのはとても難しいからです。褒めたり叱ったりするのは男の子が便利です。)

 『おれじゃないもん』と大声を出すのも男の子です。女の子は迂闊にそんなことを言って目をつけられると考えて言いませんしね。男の子をしっかりとおだててやらせれば、だんだんと『おれじゃないもん』から『おれがやるもん』みたいになってくるものです。そしたらどんどん働きの数を増やしておくことが必要ですね。

 昔の話です。男の子が『このおやつ好きでないから要らない』と言ってきました。『センター長にやったら喜ぶからやったら。でも、美味しいからどうぞと言うんだよ』と聞かせたら上手くやってくれました。それからセンター長のその子に対する評価がうなぎ上りになりました。男の子だけではなくて、大人も上手くその気にさせるようにすることも必要なのかもしれませんね。

遊びは遊び固有のものとの考え方があります。ホモ・ルーデンス(遊びをする人)との考えがあるそうです。オランダのヨハン・ホイジンガさんの造語だそうです。ホイジンガさんは遊びを@自由な活動A非日常B完結性限定性C固有のルールD物質的利害関係を持たないと規定して、仕事や学習と区別したようです。児童館の考え方の基本にはこうした思想があるようです。
 日本人は仕事と学習と遊びがそれほど区別されていないで一連の活動であるように思います。仕事の中にも学びや遊びがあります。学習の中にも作業や遊びがあります。遊びの中にも働き・学びがあります。遊びだけを特出して位置付けるのは無理があると私は思います。
 トムソーヤのトムはペンキ塗りの労働を遊戯に変えたのではなく、働きの中に遊びを見出したのだと思うのです。
平成25年ももうすぐ終わります。働き・学び・遊びの関係性をもっと深めて、きれいで地域や仲間が過ごしやすく楽しいものにしたいなあと思います。

 

     発想の転換2 おれじゃないもん4 おれがやるもん(でしゃばりが 顔を出します おれやるもん)

 『おれじゃないもん』から『おれがやるもん』になってくると、たいしてやれない子どもまでが『おれがやるもん』とでしゃばってきて困るものです。また児童館などでは、母親が『うちの子どもにもやらせてください』などと訴えてきたりもします。

 働くは国字です。人のために動くとの意味で日本人が作った言葉です。このことをしっかりと子どもたちに教えておくことが必要であると私は思います。『人のために動く』ことになっているかを子どもたちに考えさせることが大切と思います。どんな小さい子どもでもしっかり考えれば『人のために動く』ことがあると私は思います。

 草取りをするのに、幼児や小学生は危険だから鎌は使えない。でも採った草を集めることは出来る。石拾いも出来る。もっと小さい子どもでも応援はできる。人のために動くとはいろいろあると私は思うのです。

 私は子どもと仲間と一緒にいつも環境整備をしていました。今もそうです。でもなかなかその様子を記録にとってあることが少なかった。にいがた西っ子ふゆまつり(平成26年2月15日に第6回がコスポでやります)・オーケストラの集いとか夏祭り花火大会とか防災訓練などはたくさん記録しています。
 日常的な作業や当たり前のことが写真に撮ってありません。
 『ありがたいの反対は当たり前』との話を教えてもらいました。日常的なことがスムーズに動くことを有難いと思うことが大切と感じます。感謝の気持ちを忘れないように私自身が強く感じたいと思っています。

  ユニバーサルデザインとの考え方があります。バリアフリーのように特定の人が使いやすいようにするというのではなくて、年齢差・男女差・体力差があっても誰でも活動・活用しやすいようにするとの考え方です。

 環境整備活動でも乗用式芝刈り機や自走式芝刈り機・草払い機など大人の熟練者がやる仕事、鎌で草取りなど普通の人なら出来る仕事、ゴミ拾いや石拾いなど子どもでも出来る仕事、お茶出しなど妊婦さんでも出来ること、笑顔を見せてくれてみんなを応援してくれ乳児の仕事、邪魔になるけれどそれはそれで可愛い仕事など人のために動く=働くことはいろいろあります。

 最初から意図的にいろいろな仕事を用意しておくこと、用具がいろいろあること、いろいろなことが出来るように単線系の指導体系ではなくて複線系の援助体系を作っておくことがいいなあと思います。

 複線系というのは、機械を動かす部隊・草を刈る部隊・草を集める部隊・石やゴミを拾う部隊・お茶などを用意する部隊などがあり、それぞれに上手く指示が伝わるようにそれぞれに中心となる人がいて、複線で助け合うとの意味です。

     発想の転換3  『誰かお手伝いをして』(言わせません 余計なひと言 おれいやだ)

 男の子は一番が大好きです。良いにつけ悪いにつけ一番になりたいものです。『誰かお手伝いをして』と声をかけると一番になりたいので『嫌だ』と簡単に答えます。別に意味があるわけではないことが多いものです。ただ一番になって大好きな先生の注目を浴びたいだけなのです。

 私は『嫌だ』と言った子どもに『お手伝いしてくれるのね。ありがとう』と答えてあげます。手伝ってくれたら儲けものです。手伝わないようなら『手伝わないなら返事をしないでね。返事をすると手伝いたいのかと思うよ』と言います。もちろんこれは相手によっても言い方は違います。『うるさい。余計なことを言うな。』と叱るときもあるし、無視するときもあります。現場は状況環境依存的であるからです。

 『誰かお手伝いをして』との声かけに

 『嫌だ』

『何言ってるの。自分たちで遊んだんでしょう。手伝いなさいよ。』

『おれじゃないもん』

『いつもそうなんだから。もういいです。』のパターンのようなネガティブな(消極的な)方向からポジティブな(積極的な)手法を探りたいものです。

 

     発想の転換4 健康な身体に健康な心をの本当の意味は(身体は 強くなくても 心は育つ)  

 『健康な身体に健康な心が宿る』と言うのがあります。でもその反対は『不健康な身体に健康な心は宿らない』になってしまって、ずいぶんとおかしいなあと思っていました。

 調べてみると『健康な身体に健康な心が宿る』(または健全なる精神は健全なる身体に宿る)は曲解のようです。

ユウェナリスは『幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが大本の出典である。

これが戦前の軍国主義の台頭で軍人を育てるために『健康な身体に健康な心が宿る』となったようです。

健康な身体や健康な心は大切ですが、因果関係はないと考えるのが良いと思います

ユウェナリス(古代ローマ人60〜130)

昔、吉岡たすくさんの講演会をやったことがあります。その時に吉岡さんは『うちのはとても良いお母さんです。良いお母さんの条件は健康なこと明るいことそしておバカさんであること。あまり利口だと子どもも困るのです。うちの嫁はおバカであるので、とても良いお母さんです』と話しておられました。同様に大阪教育大学音楽教育講座教授田中龍三先生は『教師はあほになれ』との話をされていました。あほになるには本当は難しいことですね。

 

     発想の転換5 何のために叱るのか?(褒めるため それが叱るの 所以なり)

 脳科学者の茂木健一郎さんは『何のために叱るのか?それは褒めるためである』と話されている。叱るのはその子どもと本当は仲が良いからか、関係性があるからである。でも、悪いことをしたときにその子どもの将来のことを考えて叱ってもあまり上手くいくことはない。というのはそんな将来のことはどうなるかはわからないからだ。それよりも危険なことをしたら、きちんと叱る。反省したら、『良い子だね』とすぐに褒めてあげれば上手くいくように思う。悪いことや危険なことをしたら、褒めるチャンスだと思ってきちんと叱るのが良いと私は思う。

 新1年生が入ってくると、この子は悪さをやりそうだなと思う子どもがいるものだ。こういう時に私は一番にその子どもを褒めることにしている。きっと近いうちにしかと叱らなければならないときが来るのが見えている。悪さをする前に褒めておく。こうすれば悪さをしてしっかり叱り、『なんであなたを叱るかわかるか?』『僕のことを好きだからでしょ』と言われるようにしなければならない。

 何のために褒めておくのか?それは叱るためである。

 

     発想の転換6 人間はほとんど考えないで行動している(手と足は 考えなくても 動いてる)

 私がよく娘や連れ合いに言われる言葉がある。『何を考えているの?』とのことだ。この言葉は女の教師や保育士・児童館児童クラブ職員からよく発せられる言葉でもある。『はい。我々男どもは考えて行動しているわけではありません』というのが答えです。でもそんなことを言うと馬鹿と思われるので、男の子は様々な言い訳をするのだと思います。私自身は自分を馬鹿だと思っていますので、正直に『考えていない』と答えます。

 西欧文明があまりにも人は考える動物だなどと言うので、考えることは素晴らしいことのように思えます。でも歩くのに右足と左足を交互に出し、右手と左手をふり、身体のバランスをとるのは高度な技術です。でも普通、考えて筋肉を動かしているわけではありません。呼吸も心臓も勝手に動いています。

 人間はほとんど考えなくても動けるように出来ています。またほとんど考えないで行動しています。空き缶があれば無意識で蹴飛ばします。歩道と車道のちょっと高い縁石には上ってしまいます。広いところは走りたくなります。女の人が何かやる時に『こんなことやっていいのかな』と無意識で他人の眼を意識することを社会的参照の能力と言います。男の子は社会的参照の能力より行動する能力(≒本能)が強すぎるだけなのです。女の人の社会的参照の能力も考えているよりはむしろ本能的で無意識なことも多いのです。ということで人間は考えないで行動することがたくさんあるのではないでしょうか?

 

     発想の転換7 食事をなぜ急いでしまうか?(急ぎ食い ついついやるね 本能か?)

 人間はそれほど考えて行動しているわけではないと私は思っています。その観点から、私自身の行動を見つめなおしてみたいと思います。

 行動のパターンは本能的なものと習慣によるものがあるようです。私はご飯を食べたりするときに無意識で急いで食べてしまいます。一つは高校時代に山岳部だったので、超急いで朝はんを食べて、登山をする必要性があったからです。夏はのんびりしていると峰で雷にやられてしまう。冬と春は雪崩の危険がある。秋は陽が落ちるのが早いからです。暗いうちに眼をさましてご飯を炊き、食べて明るくなる前には歩き始めることが原則でした。『早飯・早糞芸のうち』というのがありました。

 第2に本能的な面から考えてみます。食事を摂るというのは基本的に無防備です。ですから出来るだけ急いで食べることも必要でしょう。

 習慣と本能で考えてみると、食事を急いでしまうのはそれなりにわけがあったように思います。でも今はそんなに急いで食べる必要性もないし、ゆっくり食べた方が健康的です。じゃあ訓練してゆっくり食事をするようにしたいなあと思っています。でも急ぐのをやめるのに訓練が必要なようです。

 女の人はどうなのか?90分食べ放題でも時間が足りない人たちが多い。ホモサピエンスは生き残りの手法として男は狩猟・女は採取の道を歩んだとの仮説があります。男は一番に獲物を見つけようとします。だから一番が好きです。女の人はいろいろな草木の実を採取したりするから食べられるか食べられないか・熟しているかいないかなど話し合うことの方が一番になるよりも大事になるように思います。ですから日ごろからじっくりと、たとえそんなに重要でなくても(重要でないことと思えても重要なことはある)話し合う必要性がある。食事やおやつを食べながら、おしゃべりをすることはとても大切なことである。

 男の子に10分間おやつをきちんと食べさせるのは難しい。女の子に10分間でおやつを終わらせるのも至難のわざです。

 

     発想の転換8 創造性の原点は我慢と諦め(我慢して 諦めるのも 必要だ)

 創造的なことはどこから湧いて来るかと自分自身のことから考えてみました。すると一定のことを何度も何度も繰り返し頑張ってやっていると面白いことが浮かんでくることに気づきました。弁証法でいう量的な蓄積が質的な変化を生むというものです。

 数十年前までは子どもたちに無理矢理にでも活動させることが出来ました。子どもも保護者も『よくわからないけれど、この先生の言うことなら聴いておこう』と思ってくれる人が多かったからできました。でも最近はそういうわけにはいかなくなってきました。そこで『創造性の原点は我慢と諦め』と提案してみました。

 何かを上手くできるようになるには我慢してやらなくてはならないことが多々あります。苦労しないで成果だけが上がることはありません。ある程度の苦労は我慢してやる必要があります。

 努力しても努力しても成功するとは限りません。セレンディピティと言って何千回何万回何百万回とやってみて、偶然発見したり、発明したりすることがほとんどです。ですから失敗の多くは諦めることが大切です。仏教でいう諦観ですね。
 (仏教で四苦八苦(しくはっく) 
仏教における苦の分類。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。根本的な苦を四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、・愛別離苦(あいべつりく) 愛する者と別離すること・怨憎会苦(おんぞうえく) 怨み憎んでいる者に会うこと・求不得苦(ぐふとくく)求める物が得られないこと・五蘊盛苦(ごうんじょうく)五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないことの四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。)

 小学生の子どもたちにいつもこんな話をしていたら、保育園児が聴いていて保育園で園長先生に

『園長先生、人生で大事なことは何かをしっている?』

『なんですか?健太郎君』

『人生はがまんとあきらめがたいせつなのですよ』

 

     発想の転換9 感情的に叱ろう(しっかりと 叱って褒めよう 心込め)

 常々、感情的に叱ってはダメとの話には私は納得できなかった。自分の子どもであったり、関係性があったりするから叱るのである。そこに感情が入らないわけがない。また感情なしで冷静に叱っても子どもは何かおかしいと思って、ますますエスカレートしていくものである。

 提案である。叱るときは感情を込めてしっかり叱ろう。でも感情に流されずに感情をきちんとコントロールしよう。

 人間にとって感情はとても大切である。物事の判断の基準は感情にあるとのことだ。脳の一部が損壊して、悲しむ場面で顔は悲しむのだが、泣いていることを認識できないと、悲しみの感情が湧いてこなくなるのだそうです。嬉しい・悲しいの感情がなくなると、買い物なども出来なくなるとのことです。服を買いに行くとします。赤やピンクは派手すぎる。黒は蜂に刺された経験からやめよう。白はこの前汚して怒られた。無難な紺色にしておこう。などと私の場合は紺色などを選択します。でもこうした感情がないと選択が出来なくなってしまうのだそうです。

 また、危険なこと、やっていけないこと、言っていけないことを言ったりやったりしたら、しっかり感情を込めて叱りましょう。そして反省したら褒めましょう。感情を込めて褒めましょう。叱るのは最終的に褒めるためです。褒めるのはしっかり叱らなくてはならないときに、愛されているから叱られるのだとわかってもらうためだと私は思います。

 

     発想の転換10 悪い人が悪いことをするわけでもない(環境が 良ければ悪い こと出来ず)

 不法行為の概念の中で、犯罪が起きる要件として@死角がある(窃盗・万引きなど)A力関係で優位(傷害・暴行など)B知識がある(詐欺罪)の三つがあるようだ。ですから、悪い人がいるから悪いことが行われるというより、不当な暴力が許されている・きちんとした知識がないので騙される・管理がしっかりしていないので悪いことをしても見つからないことに問題があることも多いのです。

 逆に環境を整備して、悪いことをしようにも死角がない・不当な暴力が許されない・無知に付け込まれないようにするのを徹底すれば、犯罪は減る可能性が高くなると考えられます。

 子どもの反社会的な行動や不法行為なども同じでないでしょうか。悪いことをしにくい環境を作ることが大切と思います。子どもが他の子どもに心を傷つけるような乱暴な行為や言動をするとします。まずは力関係で好き勝手な言動を許さない環境を作ります。また、隠れて暴力等を振るわないように死角をなくします。騙されることのないようにしっかり必要なことを伝えます。こんなことをしっかりやることが大切なのではないかと私は思います。

 年に2回、小針中学校のボランティア委員会の生徒さんたちと中学校へ向かう歩道の街路樹の下に花植えをしています。きれいな環境を作ると犬の糞をしたり、ごみを捨てる人が少なくなります。しかしそれでも平気で捨てる人があと1〜2割残ります。そういう人には条例とか罰金とか取り締まりの巡回とかが必要となります。
 きれいな環境を作る→死角をなくす→公権力(法律等)の行使が犯罪を防ぐことになるように思います。一連の流れの活動はゴミ捨てや犬の糞が減るだけでなく、不審者対策・空き巣対策・強盗や重大事件を防ぐことにもなるようです。これは割れ窓理論で立証されていますね。

 

     発想の転換11 愚痴のこと(楽になる 愚痴をこぼせる 仲間あり)

 愚痴をこぼしてはいけないと言われます。でも、これもちょっと違うのではと思っていました。

 内臓の手術などをした後に医師はおならが出ると大丈夫ということがあります。逆におならが出ないと危ないものです。愚痴も同じようにこぼすことでずいぶんと救われると思います。安心して愚痴をこぼせる仲間がいればずいぶんと心の安定を得ることができます。

 愚痴の漢字をよく見てみると、愚かで病に満ちた知識とのことです。こぼすことによって、愚かと病が減っていくのではないかと思われます。カウンセリングなどと言いますが、簡単に考えてしまえば愚痴をしっかりと聴いてあげることであるのではと思います。

 最近は「」付き受容共感論者が増えてきて、何でも共感せよということがあります。本当は聞いてあげることだけが大切です。評論したり、批判したりしませんが、安易に同意するのは間違いだと私は思います。愚かで病に満ちたこぼしでもあるのですから、聴いて、評論しないけれどわからないことはわからない・ダメというのはダメを通さなくてはならないと思います。

 愚痴をこぼすだけでよいこともあります。

『先生。ともやんが私のことを叩いた。叱っておいてね。』

『なに.私の大好きなちいちゃんを叩いたの。よし,ともやんを死刑にしてやる』

『言いつけたからね。ともやん,また一緒に遊ぼう』てなパターンもあるのです。

 

 

     発想の転換12 目そらし方略のこと(こっちみて ダメなら次に あっちみて)

 受容共感的手法とは別に目そらし方略があります。人間の頭脳は注意の瞬きといって、二つのことを同時に考えることが出来ないからです。

『先生。ともやんが私のことを叩いた。叱っておいてね。』との女の子の訴えに

『今日のおやつはちいちゃんの好きなイチゴだよ』との答えもあるのです。トラブルが面倒そうな場合はめそらし方略を使った方が良いこともあります。ともやんに対する怒りの感情とイチゴが美味しいとの感情は心の中で両立出来ないからです。イチゴを食べたいとの思いが怒りを忘れさせてくれるのです。だから目そらし方略は有用です。

 人生を歩んでいると、マイナスのことの方がプラスのことより多いかもしれません。でも脳はプラス思考の方を記憶してくれることが多いものです。山菜採りに行って何も採れなかった経験よりたくさん見つけた経験がはるかに少ないのに記憶に強く残ることが多いものです。

 もっと目そらし方略を活用すべきなのに、あたかも人間は考える動物なので、しっかりと考えようなどとの西欧的な思考が邪魔をしているように私は思います。

 

 

     発想の転換13 ロールプレーの意外性 (見えてくる 立場を変えれば いろいろと)

 ロールプレーは役割分担劇です。先生が子ども役になり、子どもが先生になったりして、立場を交換して演じてみることです。相手の立場や心も分かるのがロールプレーです。ところが不思議なことに、相手の立場になってみると、自分の心が見えてくるのです。

 いつも騒いでばかりいる子どもに先生役をさせ、代わりに先生が騒いで見せます。本気で演じてみせます。この時に子どもは先生の立場がわかるようになります。同時に自分はこんなことをしていたのかと自分のことを自覚できるようになります。ここで問題は先生も馬鹿になって(関西風ではあほになって)子ども役を演じます。案外子どもの気持ちもわかるものです。同時に自分の先生としての対処の仕方も反省できるようになると思います。

 ロールプレーは相互の立場を交換するだけでなくて、けっこう自分自身の自覚も出来るように思います。
    

そろそろ節分が近づいています。私は元職場ではいつも鬼役でした。上の写真の赤鬼が私です。鬼役になってうなってみるとそんな気持ちが自分の中にあるのもきづくものです。本当に殺人犯にはなれないけれど、小説やフェクションの世界で遊んだり、ロールプレーをしたりして自分を見つめることは大切だと思います。こんなとき先生も一回子どもの目線のさらに下になってみることが必要ですね。
 泣いた赤鬼の話から、鬼が実はよい心の持ち主。みんなでやさしい心になろうと「赤鬼と青鬼のタンゴ」をみんなで踊っていました。

 秋風の忘れ物 
 夕焼け ピーヒャララ
 こんもり深い 山奥に
 風にのって とどいた
 つのつの一本 赤鬼どん
 つのつの二本 青鬼どん
 心うかれれ
 心うかれて 踊りだす
 月の瞳 ロンロンロンロン
 だんだらつのの ツンツンツンツン
 ああ夜は今 踊ってる
 タンゴのリズム

  秋風の忘れ物 
 夜空に ドンドコショ
 しんしん暗い山奥に
 山彦どんどことどいた
 つのつの一本 赤鬼どん
 つのつの二本 青鬼どん
 心うかれれ
 心うかれて 踊りだす
 月の瞳 ロンロンロンロン
 だんだらつのの ツンツンツンツン
 ああ夜は今 夢ごこち
 タンゴのりズム

 

おまけの話 鬼を悪役にしたら、鬼に豆をぶつけたり、キックをしてくる子どもたちがいました。私が鬼役だったので周囲の子どもがキックした子どもに「中は田中先生だぞ」といいました。そしたらすぐに謝ってきました。最近の子どもは本当に怖い思いをしたことがないから、鬼へのキックなどは平気です。悪はやっつけろとの西欧文明に頭がやられているように思います。日本の文化はそんなものじゃないと思い、元職場では鬼は本当は良い心の持ち主にしていました。国上山の酒呑童子も本当は良い人だったそうですしね。

 

 

     発想の転換14 はたらくこと (動くのは 人のためつけ 働くに)

 働くというのはお金を稼ぐ意味ではないとわかって、ずいぶんと学ぶことがありました。実は定年退職して、平島公園をきれいにしようと思いました。平島公園をきれいにしたいから退職したともある意味では考えていました。
 草取りを頑張っていたら、70歳過ぎの方に『お前は身体がそんなに動くのに、なぜ働かないのか?』と声をかけられてしまいました。その方の考えでは身体が動く間はしっかりお金を稼げと思っていらっしゃったようです。悔しくて広辞苑で働くの意味を調べてみました。

#うごく。

#精神が活動する。

#精出して仕事をする。

#他人のために奔走する。

#効果をあらわす。

(他動詞的に) (悪いことを)する。「盗みを―・く」「乱暴を―・く」

#(文法で)語尾などの語形が変化する。活用する。「四段に―・く」

 などとなっていました。つまり仕事をするとの意味はあっても、お金を稼ぐとの意味はなく、むしろ人のために動くと考えるのが適切かなと思いました。働くを『人のために動く』とか『傍を楽にする』のように考えると働くの意味が高次になるのではと思います。

 西欧的な文明ではワーク(ジョブ)とスタディとプレイは分離されてとらえられることが多いようです。日本人は一つの活動の中に働く・学ぶ・遊ぶは一緒になっていることが多くあります。だから働くことは乳幼児からお年寄りまでとても大切なことだと思います。

 

 

     発想の転換15 勉強が出来ないのは頭が悪いからではなく習い方に問題が

   (わからない 何がわからぬか わからない)

 放送大学院のカリキュラム編成論で田中博之早稲田大学院教授が学習スキルの開発について論じている。子どもたちが勉強を苦手とか言いますが、問題は勉強がわからないのではなくて勉強の仕方が間違っているか、何をどうしたら良いかがわからないことが多いものです。

 私自身のことを考えてみます。中学高校と英語が苦手でした。『英単語を日本語に訳して、それを並べ替えて文章としてどうなるかみたいなことは意味がわからない』というのが本音でした。最近少しわかってきたことがあります。まず状況とか場面があります。この状況とか場面を「日本語ではお早うございます」と言い、英語では「Good mornig」と表現するとのことだけなのです。文化の違いがあるから、日本人は朝早く起きて、3文の得ね、みたいな感じがあります。英語圏では良い朝だね、みたいなイメージでしょう。もしかしたらgoodGod()に類似しているのかもしれません。このように考えれば日本の文化と英語圏の文化の違いも感じることが出来ます。

 嫌いな教科で日本史がありました。自分たちの生活とは関係ない感じで奈良・平安・鎌倉・戦国・江戸などと勉強させられても意味がわかりませんでした。大学での日本史の授業が新潟の歴史を中心としたものでした。沼垂の柵の話や阿賀野川が信濃川と一緒に日本海に流れていたこと、北前船の話などで郷土と歴史の関係性が一気に理解出来たように思いました。

 算数を私は好きでした。でも嫌いな人は嫌いです。嫌いな人に聞いてみると分数の割り算の意味が解らないとのことが多いようです。2分の1÷8分の1=4になるのはアンビリバルというのです。でもこれは教え方が悪かったのだと思います。8÷2=4です。8ヶのケーキがあります。一人2ヶずつ食べたら何人の子どもが食べることが出来るでしょう?との包含除の問題です。包含除と考えると2分の1÷8分の1は大きな丸いケーキの2分の1があります。ケーキは普通8分の1のサイズで食べますね。一人8分の1のサイズずつ食べたら何人が食べることが出来るでしょう?といった問題となります。2分の1のサイズのケーキ÷8分の1のサイズのケーキ=4人分となります。答の4はケーキの大きさではなくて食べる人の人数ですから、意味が違うものとなるのです。

 化学なども一緒です。私流に考えると全ての原子は男と女と中性に分けることができると考えます。金属系物質は男です。常に電子を一つ出して−になり、+とくっつきたがります。典型的な女の原子は酸素です。電子を二つもらいたがっています。そこで、水素2と酸素一つが結合して水となり安定します。これを分解するにはちょっと塩を入れて、電気ショックを与えることが必要となります。これが水の電気分解です。分解されたHは独りでさみしいので共有結合してH2となる。酸素はO2となります。

  2H2O→2H2+O2

となるわけです。みたいに考えてもらうと楽です。なおヘリウムなどの希ガス系は安定系ですので単体で存在できます。風船に入れて浮かばせることができるわけです。

 これからの時代を考えると知識を詰め込むのではなくて、学び方を学ぶことが大切となるでしょう。

 

     発想の転換16 学習するのは脳を使わなくて物事が出来るようになるため   (訓練は 苦労しなくて 出来るため)

 学ぶことは頭を使うことだと思われがちである。でも本当は脳を使わなくても物事が出来るようにするために学ぶではないかと私は最近考えるようになった。

 定年退職してから、小型自動二輪の免許を取得するために自動車学校に通った。運転の練習をしていると、他のことが考えることが出来ない。左右を確認してウィンカーを動かし、右側中央による。次に右後ろと前方を確認しながら減速して、安全なら右折する。みたいなことを一回一回頭で確認しながら運転しなければならない。普通車と運転が違うから覚えるまでは頭を使わないとならない。でも講習が進むとだんだんと脳を使わなくてもオートマチックに操作が出来るようになる。それに合わせて一本橋を渡るとかクランクを回るとか低速でバランスをとるなどの講習となってまた脳を使って学習することになる。

 自動二輪車の講習でわかったことは新しいことを学ぶとは脳を使うことである。同時に何回か繰り返してやることで脳を使わなくてもオートマチックに運転が出来るようになることでもある。

 人間の脳は注意の瞬きといって、いくつもの事象を同時に捉えると肉体が反応できないので一つのことに集中する傾向があるという。学びの場面で一つのことに集中して、結果的に脳が集中しなくても出来るようになることが大切である。言い換えれば学びとは脳を使わなくて物事が出来るようになることであると言えよう。

 学びが脳を使わないでオートマチックに出来るためと考えると、学びのプロセスの中での繰り返しが必要となる。型を何度も何度も繰り返すことが大切となる。繰り返しをつまらないものにしないために、速くしてみたり遅くしてみたり、大きくしてみたり小さくしてみたり、軽くやってみたり重くやってみたり、一人でやってみたりみんなでやってみたりの変化が必要となる。この変容を上手くアドバイスできるのが教師や指導員の仕事ではなかろうかと私は最近感じている。

 

 

     発想の転換17 国際化について (国際化 欧米化とは 限らない)

 国際化の時代になったと言われて久しい。日本人は国際化することは自分自身を日本人と狭い枠にとらえないで自分を国際人として変えていくことだと思っている。私自身もそう思い、英語の学習などを始めている。

 江原武一さんが現代教育改革論の中で面白い指摘をしていた。紹介したいと思う。

 日本人にとって国際化するというのは自動詞で自分自身を国際化するとの意味であるが、欧米人にとっては国際化するというのは他動詞で欧米人以外の人を国際化するとの意味だというのである。国際化するとの英語はinternationalizesであるという。そしてinternationalというのは世界を一つの自分たちの方向に持っていくとの意味なのだとか。国際化すると言ってもずいぶんと違ったものになります。ふと考えてみると、教育の世界でも他の分野でも英語圏の文化を日本語に翻訳して、自分を権威づけし、教えてあげるとの態度の学者が多いなあと思います。

 PAモデルとPUSモデルとの考えがあります。PAモデルはパブリック アプテクタンス モデルと言われて、専門家が人々に教えてやる啓蒙的なモデルである。PUSモデルはパブリック アンダースタンデング オブ サイアンスと言われている。PUSモデルは多数の判断・いろいろな価値観・ローカルノレッジ・双方向の知識の伝達などが特徴であるという。

上から目線の国際化と下から目線の国際化があるように思います。そして現場においても上から知識を啓蒙しようとする態度と自分自身も含めて現場から学び、自分自身を変えようとする態度では大きな違いを生むのではないかと私は思います。

学生時代のことです。私は新左翼系の運動の最中にいました。よく『インターナショナル』の歌を歌いました。これは国際共産主義が大事だとの歌です。ところが普遍的なものが権力を握り変質していきますと、ロシア共産党も信頼できない。中国共産党・朝鮮労働党・ベトナム労働党・キューバ共産党・ゲバラの考え方・トロツキーの考え方などへの移行していきます。発想を変えて、一つのものを絶対的な考え方と見ないことが大事でないかと私はつくづく思っています。

『インターナショナル』とは一つの絶対的なものを前提としているようです。でも最近は日本の『国際化する』との自動詞の考え方が世界の中で取り入れられてきていると江原武一さんは言っていました。自分を絶対化しないとともに他人も絶対化しないことが必要なのかもしれませんね。

 

  発想の転換18 互譲互助 (助けられ 助けてあげて なかよしに)フォームの始まり

研修会などで折り紙などのワークショップをやっても、自分が出来たら教え合おうとしないことがあります。最初に『助け合いが大事ですから、出来た人は他の人のお手伝いを』と提案しています。『現場に戻った時に子ども同士の助け合いを提案するためには大人である指導員がきちんと助け合わなくては』と話して受講者みんなに互譲互助の精神を訴えています。
 最近の若い人たちは互譲互助などよりも受験に勝つみたいな教わり方をしたので自己中心になっていると思います。けれど学校現場でも仲間つくりが教育の重要な課題となっていますね。生きる力みたいな考え方はその典型です。先取りして互譲互助で放課後児童クラブを運営していきたいものですね。
 互譲互助とはお互いに少し譲り合って助け合えばとても良い地域や仲間が出来るとの考えです。百田百樹さんの「海賊と呼ばれた男』で学びました。私の仕えた元理事長は『隣保相愛・相互扶助・地域とともに』というのが基本理念でした。これも好きでした。
 互譲互助が短いので使い始めました。

☆ホーム

inserted by FC2 system