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子どもにはわかる!!本気の大人について(2012914日)

 

平島公園クラブ 田中 純一

 

 第12回全国児童館・児童クラブあいち大会が10月に実施されるとのことです。第4分科会のテーマが「子どもにはわかる!!本気の大人」だとのことです。私自身が養護学校の教員や小学校の教員・児童センターなどに勤務していて、自分なりにこの点について、感じたことをまとめてみたいと思いました。

 

1、観念論からの脱却の必要性 

 養護学校に勤務していた時のことです。ヨウ素でんぷん反応の実験をしました。ヨウ素ヨウ化カリウム液がでんぷんに反応して何色になるのかとの学習です。教科書には青紫色となっていました。小学校6年生の12人の授業だったのですが、養護学校ですから字がまだ読めない子どもからいろいろな子どもがいました。頭のよい子どもは教科書が読めるので、

「ヨウ素でんぷん反応の色は何色でしょう?」との私の質問に

「青紫色です」と答えていました。でも字がまだよく読めなくて、自分の見たままをしっかりと話す子どもが

「先生。赤黒色だよ」と言いました。たしかによく見てみると青紫色とは言い切れません。

「あとで調べておこう」と言ってそのときは終わりにしました。養護学校ですから高等部・中学部もありますので、理科専門の先生に聞いてみました。すると

「学校ではなかなかお金がないので、ヨウ化カリウムが高いのでヨウチンで代用しているので、青紫色にはならないことが多い」との話でした。考えてみると私の小学校時代でも赤黒紫色だったように思い出しました。観念の世界や文字の世界で青紫色と思ってしまうとそのように感じてしまうこともあるのです。信号機の赤・青・黄色ですが、よく見てみると青ではなくて緑ですし、英語ではターンザグリーンと言っています。でもなんとなく青色と思ってしまいます。

 

 現代文明の発達の基礎に科学の知(普遍性・論理性・客観性)があると言われます。でもいつも現象は個別的・主観的・宇宙性的な要素があります。必ず同じ結果が出るものではありません。普遍性・論理性・客観性とは特殊な条件下で成立するだけのものでもあります。この科学性の根拠として絶対理性や心や精神や神といった観念論的な哲学が必要となります。ですから科学の知はある意味では底辺に神や理性といった観念論が基礎にあるということになります。

 多くの大人は科学の知を信奉していますので、その観念論に惑わされて、物事を理解しているように誤解していると思われます。この結果、ありのままの自然やありのままの状況を素直に見て、反応することが難しくなってきます。どこかで理性的(=観念論的)科学的な判断をしようとします。結果的に見えるものが見えなくなって、本気になって感じることが出来なくなってきているのではないかと私は思うのです。逆に普遍性・論理性・客観性といった色眼鏡をはずして、個別性・宇宙性・主観性といった観点からも事象をみれば、そこには感動と本物が見えるのではないかと思うのです。大人と子どもを比べた場合に感動と本物を見つける態度が子どもにはありますので、「子どもにはわかる!!本気の大人」みたいな表現になるのではないかと私は思います。

 

2、あるがままの姿を見るとき

 絶対理性とか神とか精神とか心といった観念論的な考え方を基礎としないで、あるがままの自然とか現状とかをみてみるといろいろなことがわかってきます。

 人間関係の中には必ずいざこざがあります。仏陀が言うように人間は四苦八苦しています。四苦とは生老病死であり、これに、愛する人と別れる苦しみ・嫌なやつといなければならない苦しみ・権力や物欲の苦しみ・刺激に反応してしまう苦しみを足して八苦となるとのことです。人間は八苦の苦しみから逃れられないと自覚することが必要だとの考えが仏陀の四苦八苦の教えのようです。このように考えると理性といった観念論的なものがないのだから、いじめや人間関係のいざこざは現実にあるととらえることが必要となります。問題なのはいざこざやいじめみたいなことはあるけれど、そんなことにあまり囚われないで生きていく生き方を探すことも必要であると私は思います。またいざこざやいじめは存在するが、それが暴行罪・傷害罪・器物破損罪・名誉毀損罪・侮辱罪・集団暴行罪・恐喝罪などの犯罪にならないようにすることが大切だと思います。いじめを0にするなどというのはまさに観念論者の塊の人が発する言葉のように思います。

 男の子と女の子どもをしっかりと下側にたって見ていると(under stand=理解)ずいぶんと違っていることに気がつく。ジェンダーフリーの方々が言われるように、文化的社会的歴史的違いの部分よりも遺伝子的違いの方が大きいことがわかる。男の子は一般的に高い所にのぼり、棒があったら振り回し、石があったら蹴るか拾って投げ、穴を掘り、鼻くそを食べる。これは本能の一部でオートマチックにやることが多い。ですから指導員や教員やお母さんが「危ないでしょう」「汚いでしょ」「やめなさい」「何度言ったらあなたはわかるの?」などと連呼しても効き目がありません。本当に危険な場合には、きちんと側ににこやかに近づいていってバシッとやめさせ、「でもあなたはよい子」と言ってあげればよいでしょう。また「鼻くそをレディの前で食べると嫌がられるから見えないところで食べなさい」と教えてあげればよいことなのです。理性に訴えてうるさく連呼しても効き目がないことのほうが多いのが現実です。連呼してもダメだとあきらめて子どもが我がまま放題になったり、逆に萎縮したりするものです。反対に親が切れて暴力を振るったりします。あるがままの男の子を見て、「男の子はこんなものか」と思っていただいて、無駄なストレスをなくしたほうが精神衛生上もよいのではないでしょうか?そして、高い所に上る力を体操に、石を蹴るのはボール蹴りに、石を投げるのをキャッチボールに、穴掘りは砂場や海岸で、鼻くそはこっそり食べるように躾けることがよいと私は感じています。また身近な自然との関わりの中で木の実を食べたり、カジカを突いたり、蝉取りをしたりの経験をたくさんさせたいものです。

 

3、本物の楽しさを見つけるための手法

 私は「子どもにはわかる!!本気の大人」ではなくて、「本物の楽しさを大人が見つけなくては、子どもにも伝えられない」とのことではないかと思います。そのためには観念論を乗り越えて、大人自身が自分が何が楽しいか?何が本物なのかを見極めることが必要と思います。

 カプラ・ワミー・どうぶつしょうぎ・折り紙・オニム・バックギャモン・ローラースケート・ドングリ工作・椿の実工作・モミジバフウ工作・ジャンケン遊び・人間ボーリング・ツーパワースリーパワーリレー・椅子の減らない椅子とりゲーム・子ども喫茶・ドングリご飯つくり・チゴガニのから揚げ・ハコベの菜めし・野草のてんぷら会・お好み焼きつくりなどなどいろいろなことをやってみました。やはり基本的に自分が楽しめるかどうかが勝負の決め手のように思います。

 私は将棋が苦手です。ちょっと強い小学生にはすぐに負けます。でもどうぶつしょうぎだと4回に1回くらい私が勝てることもあります。なによりもジャンケンで勝てば一回目に王手をかけることが出来ます。これはとても気持ちがよいことです。勝負を争う活動では、偶然的な要素で勝てる場合もあるものがよいと思います。バックギャモンなどはサイコロを振ってやるものですから、運がよければ下手でも勝てることがあります。折り紙を上手く折れなくても動くものへと変容させると動きが多彩になることによってきれいに折れたとは別の価値が生じて嬉しいものです。折り紙飛行機なども同じですね。

 まず子どもに伝えようとする活動の本物の面白さを自分自身が感じ取ることが必要であると思われます。

 ガードナーの多重知能理論によれば人間の知能は言語的知能・論理数学的知能・身体運動的知能・空間的知能・音楽的知能・博物的知能・対人的知能・個人内知能の八つあり、それぞれ独立していて相互に関連しながら発達するようです。苦手な知能を伸ばそうとする補償的なやり方は自尊心欠如につながることもあります。むしろ得意とするものを伸ばしてあげる方がベターな手法でないかと思います。大人も自分の得意分野で楽しむことが必要と思います。同時に知能は多重ですから、ずべての知能において誰かが優れていて、誰かは劣っているとのことはないでしょう。言語的知能・論理数学的知能・身体運動的知能・空間的知能・音楽的知能・博物的知能・対人的知能・個人内知能を組み合わせればその組み合わせは垓の単位ですまないでしょう。ということは、人間の数は60億人くらいだそうですから、億の上の兆の上の京の上の垓の上ですから、全ての人間は個性的であると考えられます。その個性を上手く生かすような手法を見つけることが必要となります。

 それぞれの得意を生かすとの手法ともう一つは一つの活動を多面的にとらえることが必要となると考えています。ある活動をする時に一つの知能のみに限らないでいろいろな知能に動員をかけて行うことです。例えば詩の朗読を言語的知能だけに頼らないで、いろいろな知能の力を使うことです。谷川俊太郎さんの詩にあきかんうたがあります。詩を朗読しながら、空き缶を蹴ったり、たたいたりの身体運動知能を使う。友達とグループになって動くと対人的知能も必要となります。リズムをつければ音楽的知能も関与します。つまりわらべ歌のように変容させることによって、言語的知能に限定されない活動にすることが必要と考えます。これと同様にいろいろな活動を多種多様の知能を使っての活動に変容させていけば、ずいぶんと楽しい活動ができるのではないかと思います。

 

4、遊びの指導から活動への発展

 いろいろなことをそのまま素直に見ていると、学校は学び、児童館や児童クラブが遊び、会社は働きと分化できないのではないかと思い始めました。例えば児童館においては遊びの場所だから、遊びに特化して楽しく遊ばせればよいとしてしまうと、きちんとした後片付けはしないし、遊具の使い方を教えていても何も聞こうとしない子どもも出てきます。

 実際によく見てみると遊び・学び・働きとには別れていないのです。全体として大きな意味で活動があり、その活動の中に遊びと学びと働きが包含されています。主に遊びを主とした活動が児童館や児童クラブでの活動であり、学びに特化したのが学校での活動で、会社が働きに特化しているということは出来るでしょう。でも実際は活動の中に働きと学びと遊びが入っています。

 働きとはお金を稼ぐことではありません。実は日本人の作った国字で『人のために動く』が語源です。結果として報酬があることもあるくらいのことです。活動の中には働きの部分が必ずあります。児童館児童クラブでもおやつの準備をしたり、遊んだ遊具の後片付けをしたりします。これは働きですから、人のためにしっかりと動く必要性があります。

 学びとは他人から教わることですから、真摯にそして紳士淑女的に口を閉じて他人の学びを邪魔しないようにやることが必要です。

 遊びは自由に自分自身を発揮することですから、大声をあげたり騒いだりすることもあると考えておくことが必要です。

 全ての活動が働きと学びと遊びが包含されていると考えると、活動の中にメリハリをつけることが必要となります。遊びだけ、学びだけ、働きだけ、ではだらしのないことになります。例えばサッカーをする場合で考えてみましょう。サッカーをする前に石やゴミなどを拾うのが働きです。これをしないでグランドや公園を使うのはルール違反と私は思います。グランドの外にボールが出たらストップして危険のないようにするとか、オフサイドのルールはなしにするとか、1年生のハンドは見なかったことにするなどの確認は学びですから静かに聞かせる。これは学びです。サッカーを始めたら危険のない限り自由にさせる。これが遊びです。時間になってグランドにトンボをかけたり、ボールの後片付けをしたらこれは働きです。働き・学び・遊びを活動の中でメリハリをつけていくことが必要であると思います。これが遊びといった一部分を取り出すのではなくて、全体とした活動ととらえることの必要性です。学校や児童館児童クラブの活動が硬直化してきているのは、大人(=指導者や教員や保育士)自身が自分の活動を教えることだと考えていることにも原因があると思います。子どもは教わる対象・大人は教える対象と関係性を一方的なものにしてしまうと、大人自身が硬直化してしまいます。本当はテーチング イズ ラーニングと言われるように教えることは学ぶことなのです。大人の活動は教えるという働きだけではなくて、教えながら子どもから学び、同時に学んだことを含めて自分の中にも遊びの要素がないと困るのです。進歩のない職員は学びと遊びの要素が少なく、結果的に働きの成果も少ないように思います。とりあえず稼いでいるけれど働いているとは思えない人も多々いるものです。そこら辺は子どもは敏感に見抜いているように思います。

 

5、よりよい環境つくり

 働くとの漢字が日本人が作ったということは私にとってとても素晴らしいことだと思っています。日本人は人のために動くことが大切と考えているからです。活動をするためには、活動をする場所が必要となります。活動をする場所を整理整頓して活動しやすい環境を作っておくことは安全管理上からも大切なことです。児童館児童クラブ・学校でもよりよい環境を作るための、清掃・ゴミ拾い・木の剪定・雑草抜き・花植え・建物の保守管理等は業者や用務員さん任せにするのではなくて、自ら進んでみんながやるべきことです。下手な遊びの指導をする人よりもよりよい環境つくりをする人のほうが子どものために役立つと思います。つまり児童館児童クラブの職員の仕事はいくつかの活動を通して子ども達を健やかに育つように援助することです。活動の中には働きと遊びと学びが包含されています。でもその活動の前提に安全で安心して活動できるよりよい環境があります。そうしたよりよい環境つくりをすることが児童館児童クラブの職員の第1使命であると思います。子ども達はしっかりと大人の様子を見ています。よりよい環境つくりをしないで、遊びの指導だけをしている大人を本気の大人とは思わないようです。学校現場でも私の尊敬する方々はいつもゴミを拾い、草を抜き、校内外の安全管理をしていました。ゴミ拾いや草取りをしていると、子どもよりも背が低くなります。その分下から子どもの様子を見ることが出来ますので、子どもがどのようなことを考えて行動しているかをわかることが出来ます。英語で理解するはunder standですが、これは下に立つというのが語源です。上目線では見えるものも見えなくなります。

 欧米人は人間の心と自然を無理矢理に分離しました。心や理性や神といった観念的なものを前提にして物事を考えています。その観念をベースとしての科学の知は論理性・普遍性・客観性にあります。科学の知から考えれば、草取りやトイレ清掃などの仕事はパートなどの人にやってもらって、能力のある人はその時間を有意義に使った方が能率的だとの考え方になります。はたしてそうでしょうか?汗水を出して働かない人が本当のことが見えるのでしょうか?日本がダメになるとすれば、働くこと(=人のために動くこと)の心がなくなって欧米化されてしまうことではないかと私は思っています。日本人が働く思想を持ち続け、勤労精神を失わなければ、日本はダメにはならないと思います。

 

6、叱ることについて

 人間には他の自然や動物と違って理性があると考えている人たち(=観念論者なのですが)は、「子どもを叱る時に感情的に叱ってはいけない。なぜいけないことかをしっかりと教えなくては」と主張されます。でも人間は感情をベースにして生きている面もあります。私は、自然のまま、親や私や子どもの心の中を感じ取ると、感情的に叱らないというのは無理があります。また感情を込めて叱らないと子どもには伝わりません。感情的に叱ることが問題なのではなくて、感情をコントロールすることが大切なだけです。脳学者の茂木健一郎さんが「何のために叱るか?褒めるためである」とのことを言われています。自分の子どもであったり、教え子であったりするから可愛い。可愛いから叱るのですが、最後にポジティブな方向で褒めで終わることが大切だというのです。

 石を投げたり砂をばら撒いたりしたら、叱るチャンスと思って、にこやかに近づいていって、感情を込めて「この手はダメ」としっかりと叱りましょう。でもその後に「わかった。わかったあなたはとてもよい子」と褒めてあげることが大切です。褒めで終わらないで怒りだけで終われば感情がコントロールされていないことになります。理性的に静かに説諭説得するのとバッシと叱って褒めてあげるのとどちらが効果があるかをやってみると良いと思います。効果のあるほうをやるのがよいのではないかと思います。子どもは本気で叱ってくれる人をある意味では求めているのかもしれません。

 

 

7、最後に

 科学の知が絶対的真理と思われたことに誤解が始まってのではないかと私は感じています。科学の知のベースには繰り返してしまいますが、絶対理性とか神とか心とか精神とかの観念論的な基盤があります。そうした観念論的な基盤を持たない日本人が科学の知を信奉してしまうと、本物が見えなくなってしまうのではないかと思います。科学の知を乗り越えて臨床の知も上手く活用しながら、本物探しを子ども達とやっていきたいなあと思っています。観念的なことばかり書いてしまいましたが、実は私としては観念から脱却して自分も含めてありがままをなんとか見つけていくことが必要なのではないかと提案してみたかった。あえて言えばそれは大きな意味での自然主義的な考え方です。その考え方の中には科学の知も臨床の知も含まれると思います。



 児童館・児童クラブで考えてみると

 

1、観念論からの脱却

 児童館・児童クラブの実際の活動で考えてみると、トラブルを起こした場合に、説諭説得をして受容共感するのが一番観念論的であると思います。受容共感派には根っこに人間には理性があるとの観念論があるからです。これに科学の知を付与してあたかも合理的客観的普遍的な手法と主張しているからです。研修会や講習会で「感情的に叱らない」みたいなことを聞かされ、やってみても上手くいったことなどありません。あるがままの子どもを見ないで、あるがままの行動を理解しないで、自分の理想的なる児童館や児童クラブを押し付けるのは観念論ではないかと私は思います。

 児童館や児童クラブには特殊なそれぞれの状況があります。これは個別的であり主観的であり宇宙的なものです。例えば「子どもは自然の中でのびのびと遊ぶのがよい」などということも、現在の原発被災地で放射線のために外を使えないことがあります。そしたら、通常は室内遊びの充実。そして夏休みや春休みなどは放射線のないところへ疎開して活動することが必要となります。

 行事や祭りの計画なども一緒です。観念論者は実際に上手くいかなくても計画を立てるのが好きです。事務室に閉じこもって計画を考え、子どもの相手をしないでいる職員の多いことがあります。現場で子どもと活動していると、子どもとの会話や挙動の中で、じゃあ今度の祭りの踊りはAKBの曲にしようかなどのアイディアが湧いてきます。ワミー・カプラが自宅で遊んでいるとの子どもからの情報から新しい遊具を発見することもあります。智恵とアイディアは現場にあるのです。

 

2、児童館・児童クラブの子どもをありがままに見るとき

 学校や幼稚園や各種習い事と違って、児童館児童クラブの活動は基本的に何をやってよいところにあります。学校は学習指導要領・幼稚園は幼稚園教育要領・保育園は保育指針があります。これに比べたら、児童館や児童クラブはほぼ自由と言えるでしょう。ですから臨床の知でいう個別性・主観性・宇宙性を思い切って発揮できる場所です。実は個別性・主観性・宇宙性が発揮できることが根本にあって、科学の知である普遍性・客観性・論理性の理解も深まるのです。

 児童館・児童クラブの現実をたんに批判的に見るのではなくて、ありがままの姿をしっかりとチェックすることが必要となるのです。私は定年退職後に、児童クラブ・児童館・公民館・幼稚園などでカプラや折り紙やことば遊びなどの活動のワークショップをしています。その地域・場所等でいろいろな子どもがいます。いろいろな指導員もいます。その現実を前提にして、いかにこれからの日本の子どもに何が出来るかを考えて実践することが必要と思います。

 比較的に3世代同居が多くて、土曜日や日曜日には家に誰かがいて、児童クラブでも土曜日閉館が出来るところもあります。でも商店街みたいな場所や核家族で土曜日閉館は難しいところもあるでしょう。児童館によっては正月3日以外は年中無休との児童館もあります。ありがままの中で何が出来るかを考えることが必要と思います。

 

3、本物への取り組み 

 児童館・児童クラブにおける本物への取り組みを考えてみたいと思います。私はそれこそ地域の特性を活かした活動をすることではないかと思います。新潟市南区では大凧合戦があります。この合戦のイベントに放課後児童クラブの子ども達が参加しているとのことです。同じく白根市児童センターの大体育館は大凧つくりの会場となっています。新潟市全体としても総踊りが盛んです。万代太鼓もやっています。新潟市は自然も豊かですから、ドングリや椿の実やモミジバフウの実なども見つけてみればたくさんあります。本物体験とはその地域地域の特性を上手くいかしてやることでしょう。日本は沖縄・九州・四国・本州・北海道と広くてしかも気候もいろいろです。もちろん特産品もいろいろです。郷土芸能もいろいろです。この特性を使わないのは損ではないでしょうか。新潟にはソースカツ丼があります。愛知の味噌カツ丼も美味しそうですね。何でもやれる児童館児童クラブは本物に挑戦したいものです。

 

4、児童館における遊びから活動への発展

 児童クラブでは遊びだけではなくて、働き、学び、遊びが包含された活動という考え方はやりやすいと考えられます。児童館では遊びを通しての健全育成みたいに言われているので難しいかもしれません。でも発想を転換してみることも必要です。例えば、トムソーヤの冒険でトムがペンキ塗りを友達に上手くやらせてしまう話があります。

 トムは野球のボールを餌に友人のベンにもペンキ塗りを手伝わせていると、名案が閃きました。それはいかにもペンキ塗りを楽しそうにする事で、通りかかる友人たちは次々とペンキ塗りをやりたがるようになり、トムは簡単には友人たちにペンキ塗りをやらせなかった為、友人たちはペンキ塗りをさせてもらうお礼として次々にビー玉やリンゴをトムにあげてペンキ塗りをさせてもらいます。こうしてトムのペンキ塗りを冷やかしに来た友人たちは、みんなトムの罠にはまって、持ち物を差し出してペンキ塗りをさせてもらい、塀は一日で見事に塗り終わり、トムは友人たちからたくさんの物をもらって、またポリーおばさんからペンキを塗り終えた事を誉められるのでした。

トムが発想したように、上手く子ども達に遊びのみの特化したものではなくて、働きと学びと遊びが包含された活動へと参加を促すように働きかけることが必要であると思います。

 また行事や活動をする時に準備・実行・後片付けの全体を子どもにも参加させることも上手い方法です。ドッヂボールをやるにしても、職員が準備をして、子どもが遊び、後片付けを職員がやるというようなパターンになっているので、子どもに後片付けをさせようとすると『俺使ってないもん』と言われてしまうのです。秋田の児童センターでカプラやっていた時のことだそうです。カプラが終わった後に『先生。○○君はサッカーの練習があるから、後片付け免除してやって欲しい。その代わりに俺がやるからさ』と申し入れてくれた子どもがいたそうです。カプラは準備・遊び・後片付けが一つの活動としてセットされているので、遊ぶだけ遊んで逃げるのはいけないことにしています。でもこんなことを提案できる秋田の子どもたちは素晴らしいと思いました。遊びを通しての健全育成ではなくて、活動を通した健全育成にするためには、児童厚生員の研修会でも、参加者全員で後片付けをちゃんとするようにしたいものです。

 

5、よりより環境つくり

 私が東京の研修会でよりよい環境作りとの提案をしたら、『新潟は自然があっていいですね。東京では雑草もなく、花を植えるところもないです』と言われたことが昔ありました。最近では農業も農地がなくても出来る時代です。東京でも太陽は当たっているのでしょうから、プランタに花やミニトマトやゴウヤ・キュウリなどなどをいろいろ植えて、酸素を消費するだけではなくて、酸素を生産する活動もして欲しいと思います。よりよい環境とはどこからでも出来るのです。コンクリートとアスファルトで掃除が楽というような発想ではなくて、毎日の水やり、枯れた葉を取ったり、花に蝶が飛んでくる環境を取り戻すことが必要です。都会の中でも児童館や児童クラブにいけば緑がいっぱいであるとか、田舎でも児童館児童クラブの周辺は雑草がきれいに刈られていて、花がたくさんあって楽しいとかそんな環境つくりを子ども達と一緒にやりたいものです。

 

6、叱ることについて

 叱ることはとてもエネルギーが要ることです。とくに叱った後にほめで終わることが必要なので、アフタケアも含めて全体を眺めながら叱ることが必要だからです。人間の中には天使もいるし悪魔もいるようです。子どもの天使性や理性だけにも期待が出来ないし、といって悪魔だとも思えない。この微妙なバランスが必要であると私は思います。

 別な観点から考えてみると、ほめるために叱るのですから、意地悪くネチネチやんないことが必要と思います。下手なのは『学校の先生に言いつけてやる』とか「おうちの人に話しておきます」みたいな「」指導かと思います。受容し共感し、説諭説得してもダメだとこの手となります。子どもも半分本当の指導員の気持ち(=親や先生にはいい顔したいから言わないであろう)がわかっているので、ますます反抗的になったりもするものです。叱る時はバッシとやるけれど,さっと切り替えて『ボール投げでもしようか』みたいに持っていくことがよいのではないかと私は思います。またいつも同じパターンで叱るのではなくて、危険でやっていけないことのみを叱り、それ以外は叱る回数を減らした方が上手くいくように思います。でも本当に危険な時は本気で叱る必要性があると思います。

 

7、最後に

 自分の考えを児童館児童クラブに当てはめたらと追加してみました。ご意見等はFBでお待ちしています。

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