☆ホーム

科学の知は観念論を基盤にしている(2012930日)

                                             児童健全育成指導士 田中 純一

 反哲学入門(新潮文庫)木田元著

 

 イオン南に出かけて、新潮文庫のYONDA100冊見つけた。これを私は一冊100円と勘違いして、お買い得と思って買ったら、4冊持っていったら1600円ほどとなって一瞬びっくりした。でも見栄っ張りの私はそのまま購入して。それがこの一冊である。中身が濃く、衝動買いをしてよかったと思った。

 いつものように私流の要約をする。木田さんは、哲学はソクラテスから始まったと考察している。それ以前には自然そのものをそのままと見ていたという。ソクラテス以後、人間存在そのものが何かを考えて、超自然的なもの・神的なもの・理性などなどをその背景にあると考えた。ここがヨーロッパ的であり、つくる・うむ・なるのなかで人間がつくることが自然を支配することにあり、根拠としての超自然的なものを考える必要性が出たという。つまり哲学は超自然的なる物の研究である。(以下西欧的なものの考え方としてのつくる・うむ・なる太字にする。自然主義的なものを『ある』『なる』『つくる』にした。)

 ところが日本人にとっては自然は現実としてあるものであり、超自然的な存在がなくても存在していると考えている。私流の表現で言えば『ある』、『なる』、『つくる』との関係である。そこで自然との共生が必要となるし、かりに人間の肉体は死んでも脈々と大自然の営みの中で生きていると考えることが出来るのではないだろうか?

 木田さんは哲学が基本的に自然とは別に超自然・理性・神の存在を研究するもので、ニーチェからは超自然的なものではなくて、自然そのものをそのまま捉えようとした意味で、哲学に対して反哲学であると主張されている。反哲学論の考え方はそのまま日本的な多くの自然の中に神がいるとの日本の考えと一緒ではないかと私は思う。

 

 近代科学の発展は、自然と人間を分離した科学の知=客観性・論理性・普遍性をその基盤においている。客観性・論理性・普遍性は、真実との誤解があるのではないかと私は思う。客観性・論理性・普遍性のおおもとには、一神教の神か、絶対理性か、自然からは分離された精神が別のものとして存在することが必要となる。したがって客観性・論理性・普遍性の基盤に観念論が存在することになる。したがって、科学の知を言い張る人たちは、その裏に強固な観念の世界を持っている。この観念の世界は本来の大きな意味での自然と関係性がないので、一つの仮説世界の中で成り立っていると考えられるであろう。ですから最初の仮説をどのように立てるかで、物事の考え方はまったく違ったものになる。

 一つの例で考えてみよう。人間は生きていくのに経済活動は不可欠である。経済活動の優先こそが大切である。ですから、除草剤等の使用は必要である。このような主張がある。同時に除草剤の使用は人間の身体のためによくないから、使用をやめるべきである。この二つの命題から客観的・論理的・普遍的な論議をしたとしてもまったく正反対の答えが出てくることになるだろう。極論をすれば、自国民に被害があるのは許さないが、他国に売るならよいみたいな結論もあるうるのである。自然主義的な考え(=自然も含めて人間もいる=反哲学)方からすれば、除草剤を現実的に使用して、米を作っている。この現状は事実として受け止める。しかしながら、農薬汚染の実態は存在する。そこでいかに農薬等を減らして、その代わりの手法はないかを考えることが必要となる。合鴨農業や有機農業を探ったり、安全な農薬(竹炭酢とか除虫菊とかいろいろあるであろう)みたいなことを考えることになるであろう。

 科学の知は観念論的な仮説をまず立てることが必要となる。この仮説の戦いを通して、実践を展開することになる。ところが実際の現場は現場そのもので、仮説のような状況にあるわけではないので、大きな矛盾が生じてしまう。この矛盾を分析できないで、科学の知を信奉するので問題は深刻化してくるのである。

 児童クラブ等における子どものいざこざについて考えてみよう。人間存在そのものにいざこざがあり、摩擦があり、多少のいじめがあるのが現実そのものである。ところ、絶対理性があると信じている人は(日本人は一神教でない人が多いので、基盤となるのは知性・理性となるであろう。もちろん宗教を信じている人はその宗教的基盤が根拠となる)学校等においていじめはあってならないことになる。なぜならば、人々の理性を前提にして学校は作られていて、児童を健やかに育てる場所だからである。そこでなんでいじめやいざこざがあるのだろうかとの問題になる。いじめ言葉やいざこざ言葉を使わないとか差別用語を禁止するとか、子ども同士の摩擦を少なくするなどの手法をこうじることとなる。ところが自然主義的な考えからいえば、そもそも人が存在すればいざこざがあるのだ。それに無理に蓋をすれば、状況は逆に悪化するだろう。人間関係のいざこざは、興味が人間関係のみに向けられているから深刻化するとも考えられる。興味を人間関係以外のものに持っていくのがベターではないかと私は考える。身の回りの植物の変化・雲の動き・動物の面白さ・昆虫の不思議・星の移り変わりなどなど人間関係以外でもいろいろなものがあるであろう。また、例え、人間関係でも、同級生だけではなくて、隣のおばさんおじさん・お隣のあかちゃん・小学生・おじいちゃんおばあちゃんなどいろいろな人がいる。同級生だけに拘る必要性はないだろう。いろいろな人間関係があればよい。私はそんな風に思う。同級生とは誰とでも仲良くしなければいけないなどと観念的理性的に決め付けられると、嫌なやつが居る事実をどのように考えたらよいというのであろうか。嫌なやつが居ると思う自分がおかしいのか、嫌なやつの存在そのものがおかしいのか相反する戦いとなってしまう。人間関係などはいろいろなもの。嫌なやつもいるし、仲良しになりたい人もいる。人生そんなもんじゃないでしょうか?嫌なやつとはそれなりの距離をおいて付き合うしかないしね。と思っていてもなかなか難しいものですが。

 農業政策なんかも一緒のことが起きる。農業は国の基本ですから自給率を高め、日本農業を守ることが必要であるとの論がある。同時に国際化時代の中で安い農産物をちゃんと輸入して、日本経済の国際競争力をつけるべきであるとの論理も存在する。論理と論理がぶつかり合っても、なかなか決着はつかないことになる。論だけを上手く展開したら、勝ちとなるのだろうか。TPPなどの問題でも、それぞれの論理の立場から、自分達の都合のよいように解釈するから、物は言いようでなんとでもなるだろう。逆にあるがままの農業の現状の中で、これからどの方向性に物事が移りつつあるかを判断することも必要ではないだろうか。今から19年前の1993年に米不足の時に、国産米とタイ米がセットでなければ買うことができないことがあった。でも日本人の多くはタイ米を食べることはなかった。消費動向としては高くても美味しいものをとのニーズがあることも確かである。日本農業が生き残るためには、美味しくて安全で、誰が生産者であるかとのことが大切となってきているであろう。同時にソーシャルアクションの方向性として、均一できれいな食べ物よりもより自然で不揃いだが、旬のものを大切との考えや地産地消を普及していくことも必要であろう。また、ガソリンの高騰から、バイオ燃料としての食料品が高くなることも考えられる。このような状況の変容の中で日本の農業の方向性を探るべきであって、観念論的な展開から物事を展開しようと思っても、自説に固執するだけになってしまうのではないか。今努力することが何かを抜きにして、グローバル化だの農業を守れなどのスローガンを掲げても何も生みはしないのではなかろうか。

 結論的に考えてみると、事物は全て個別的主観的宇宙的である。ここに観念論的な客観性普遍性論理性のみで解決しようとすることに無理があるのである。

 尖閣列島問題でも一緒である。尖閣列島周辺に資源があるとわかってから、各国は自国領土を主張し始める。また国内矛盾のはけ口として他国とのいざこざを持ち出すのは外交政策における常套手段である。日本国憲法に定めるように

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

との理念だけで物事が解決するわけではないことを理解することが必要ではないだろうか。

 

 

 人間存在を自然の中の一部と考えてみると、自分という存在がなくなっても、自然の一部の中に(具体的には自分の子どもの遺伝子を通じてかもしれないが、大きな意味ではそれだけではない。)受け継がれていくことになるであろう。まず大きな意味での自然が『ある』。その中でいろいろな現象が成り立っていく。それが『なる』ではなかろうか。そして『なる』の一部として人間が物事を『つくる』とのことがある。しかしながら、『なる』も大きな意味での自然の『ある』の一部であり、『つくる』は『なる』のそのまた一部であるだろう。ですからつくるのみを突出させる西洋哲学の限界がそこにはあるのではないかと私は思う。

 

 私はいろいろな地域や児童館などでの行事を企画している。この企画の過程でいつも他人と話が合わないことが多い。西洋的なつくるを主体に思考している人が『どのようにしてつくるか?』との主張が強いことに違和感があった。そして立案書の検討に時間をかけるのである。私はまずその場所があり、そこの自然があり、そこの場所に人がいて、その場所の歴史がある。そんな条件の中で何をなすことが出来るかを考える。もちろん私も主体的に取り組むのであるが、取り組む私自身も自然の材料の中の一つであるのだ。つくる概念だけでいろいろやってみても本当のことが見えてこないのである。

 もっと具体例で考えてみよう。折り紙の活動は昔からあった。この折り紙を私はアクション折り紙との手法を使って普及させようと考えている。しかしながら、演繹法的に折り紙の持つ教育的効果→具体的な展開の手法→子ども達の主体的な取り組み→活動の実施→具体的な成果→折り紙活動の手法の開発といった手法論で展開しているわけではない。折り紙という素材があり、子ども達がいて、特定の場所があり、特定の時間があるとの状況の中で、私がどのような展開が出来るかを考えているのである。結果的に子ども達が主体的に取り組み、効果があったら、それを少しずついろいろな場所に普及させ、帰納的に仲間つくりをしたいと考えているのである。演繹的と帰納的な展開は似ているけれどもどこかちょっと違うのである。まず健全育成の効果みたいなものが先に展開してもそこでの状況が無視されているのではないかと思う。

 自然の中で子ども達がのびのびと遊ぶのはとてもよい。海水浴は貴重な体験である。だから海水浴をしようと主張しても上手くはいかないであろう。自然的・人的・外的・内的な条件がどうなっているかを見極める必要がある。実は本当は自然的・人的・外的・内的な要件が海水浴との手法を求めているから、海水浴を実施すると考えるべきであろうと思う。地域の祭りも同じである。地域での外的・内的・自然的・人的要因の成熟を上手く伸ばすことが必要である。ところがどうも、何をつくるべきかの観念論者達はあるべき姿を主張して、『ある』姿を見つけられなくなっているのではないかと思うのである。それが西欧的哲学の悪影響ではないかと私は思うのである。

 

 西欧的哲学に毒されたためか、全ての活動に基本理念があり、その基本理念を実現するための手法が提案され、そのための人的・財的・材的手段として何が必要かを論じるようになってきたように思う。そうではなくて、『ある』がままの現実の中で今何が『なる』方向性が求められているかを見極めていくことが必要ではないかと思う。『なる』方向性を見つけることは、謙虚な互いの研究的態度が必要であるので、たんなる多数決による民主的方法とは相容れないものが出てくることもある。ある程度『なる』方向性が見えてきて、いくつかの手法が提案されて、直接関係する人たちが自己決定する手段として多数決が必要な場合もないわけではない。しかしながら安易な多数決論議は『なる』の方向性を抜きにして何も生まないのではないだろうかと最近私は感じている。
 まず『ある』がままの自然があり、そこから『なる』方向性のためにいかに『つくる』に挑むかを考えることが必要であると思う。

 

 

 

inserted by FC2 system