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観念論との戦い(2012年9月6日)

児童健全育成指導士 田中 純一

始めに

 ジャスコ新潟南店へ買い物に出かけた。本屋で新潮文庫『YONDA100冊』なるものを見つけた。よく見ないで100冊を100円と勘違いした。素晴らしい価格破壊と喜んで4冊レジに持っていった。『1450円です』の店員さんの言葉に驚いたが、見栄っ張りの私はそのまま購入した。自宅に帰って読んでみた。『反哲学入門』(新潮文庫木田元著515円)との本がとても面白かった。間違い買いもするものだと思った。
 反哲学入門を私流に解釈してみた。ソクラテス時代のギリシャ以前は自然をそのままに捉えていた。ところがソクラテスから自然と人間の精神の分離の考え方が出てきた。その後デカルトの時代となり『われ思うゆえにわれあり』との自然と精神が分離した考えた方出てきた。これがドイツ観念論へと受け継がれていった。自然と心が分離されると、心のおおもとが必要となる。そのおおもとが何かを研究するのが哲学であるという。したがって哲学とは観念論であり、日本人の考える自然とは別に純粋理性とか神とか精神とかが必要となる。近代科学の発展は心と物との分離が有効であった。いわゆる科学の知(客観性・普遍性・論理性)で何事も解決するかの幻想が出てきた。しかしながら科学の知の裏には理性・精神・神といった人間の絶対性なるものが必要となる。したがって、科学の知は観念論をその基盤に持っている。なおニーチェやハイデッガーの考え方は近代的合理主義の疑問から自然そのものへの回帰の考えがあり、哲学というよりは反哲学論(=観念論ではない)と考えることができるという。
 このように分析してみると、ある程度物事のすじが見えてきたように思う。

  観念論と自然論
 多くの活動を実施するにあたって、観念論的な考え方と自然論的な考え方の食い違いがあるように思う。
 いじめもんだいなどはその典型である。観念論的な立場から考える。学校は子ども達を健やかに育てるための組織である。ですからいじめなどということはあってはならない。何でいじめが生じるかを分析する。学校カウンセラーを配置する。教員の指導と管理を強くする。子どもの監視を強める。とのパターンになる。結果的にいじめいじめと騒ぐほど、いじめる子どもは巧妙になり、いじめはますます見えにくく潜在化する。
 自然論の考え方ならどうなるであろうか。人間である以上いざこざは存在する。仏陀も人間の四苦八苦の中で6番目に『嫌なやつといる苦しみ』としてあげている。(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦おんぞうえく・求不得苦ぐふとくく -五蘊盛苦ごうんじょうく)これらは人間である限り存在している。ですからいじめなどいうのはなくらないのが本質です。しかしながらこうしたいざこざが犯罪的行為へと発展しないようにすることが大切です。いざこざはある。しかしそれを暴行罪・傷害罪・侮辱罪・名誉毀損罪・集団暴行罪・窃盗罪・恐喝罪などにしないことが必要である。多くの観念論者達が『なぜいじめがあるのか?』と分析している。自然論から考えれば『あるものはある』のですから、分析するだけ無駄な時間を費やしていることになります。
 ところが科学の知を万能と考えている人たちはこのことを理解できていないので、エンドレスのジレンマに陥ることになります。そしてそのつけを他人に回すので現場はたまったものではありません。
 ADHD傾向の子どもに対する対処も一緒ですね。自然論の考え方からいえば、昔から注意が過敏で多動な子どもがいました。その子どもにどのように接したら安定して、子どもが健やかに育つかを昔の先生達や周りの大人は考えていました。そして『出来ないことは無理をさせない。でも危険なことはきちんと叱る。得意なことを伸ばすようにする。基本的な躾をきちんとする』ようにしていました。
 観念論者(科学的な考え方)の人はなぜ注意欠陥多動性症候群になったかを社会的・歴史的・家族的・精神的・環境的・病的な観点から分析します。そして原因を特定して、この子どもはこんな子どもであると診断して自己満足していることが多いように思います。そして何よりもいけないことはその子どもの遅れている知能を補償的に伸ばそうとすることです。結果的に自尊心を失わせて、マイナスの方向へといってしまうことが多いものです。なぜ遅れているものを伸ばそうと思うかというと、その子どもの優れているものを見つけることが出来ないか、優れているものを教える能力が指導者にないことによるものが多いものです。8+7は教えられるが、秀でたけん玉の技術を教えることは出来ないというようなものです。
 人間には得手不得手があるものです。自然論者はそれを認めていますので、子どもからも学ぶことが出来ます。観念論者は自分は偉いと思っているので子どもから学ぶことは不得手です。
 
 脳の働きから
 人間は哺乳類の中では弱い動物で、ホモサピエンスの特徴を調べてみると多産多死と出ています。ねずみの仲間ですね。鳥のように羽で空を飛ぶことも出来ず、カメレオンのように変色して周りと同化もできない。亀のように固い甲羅もなく、といって鋭い牙などの攻撃できるものもない。このため、危険を察知する能力は発達したようです。ちょっとした環境の変化を感じて対応が出来るようになっています。例えば、ガチャーンと物が壊れるような音がすれば、脳は即座に筋肉を緊張させるように命令をします。これは条件反射であり、考えてから行うわけではありません。その後、筋肉が緊張したとの情報が逆に脳の前頭葉に伝えられ、今までの経験から、怒りや悲しみや大丈夫なことなどの判断が出て、感情が出てきます。脳梗塞などで条件反射で顔がほころんだり、筋肉が硬直したりしてもその情報が前頭葉に送られなくなると、顔は笑っているのに楽しいとの感情が芽生えなくなることがあるそうです。もちろん、涙などが出る場面で涙が出ても悲しいとの感情は生じなくなります。つまり、楽しいから笑ったり、悲しいから涙が出たりするのではなくて、ある刺激でオートマチックに涙が出たり、顔をほころんだりするから、悲しかったり楽しかったりすることになります。いわゆる理性的な判断はこうした状況において、今までの経験からどのような行動をすべきかを思考訓練したその結果出てくるものであろうと思われます。お葬式で躓いた人を見て、笑いそうになりますが、その刺激が前頭葉に行き、でもこれは笑いをこらえなければならないと判断するようなものです。
 脳のこうした働きを考えてみると、ある刺激に無意識で反応するパターンをコントロールする手法を上手く作ることも大切になると思います。カプラをやっていると積んでいる最中にガチャーんと崩れることがあります。この刺激に筋肉は反応して、手を握ったりします。飛び上がったりすることもあります。するとこの反応が前頭葉に伝わって、『しまった』『残念』「やってしまった』『悔しい』『嫌だ』『誰かが振動を与えたのだ』のようなネガティブな感情が芽生えます。すぐに切れる子どもは他人のせいにして怒りの感情になったりします。このときにガチャーンの刺激に反応しての筋肉の緊張が前頭葉に伝わる前に『よい音がしたね』とワーカーが声をかけてあげることが大切となります。ガチャーンの刺激と『よい音がしたね』との声かけをしてもらったとの刺激が前頭葉に伝わります。すると『壊れたけれど、ここまで頑張ったからよい音がしたのだ。』とのポジティブな感情が芽生えてまた頑張ろうとするのです。科学の知を信奉する観念論者は、カプラ等が壊れて怒る子どもに対して、『気持ちはよくわかるけれど、そんなに怒らないように』と指導します。結果的にネガティブな感情がますます大きくなり、ますます怒りが膨れ上がることになります。いわゆる受容共感派の方々はよい子を育てようとして、結果的に問題を深刻化させていることが多いのです。
 同様なことは未熟な保育士によく見られるものです。お母さんが保育園に預けに来た時に子どもはお母さんと離れたくなくて泣きます。すると『大丈夫よ。お母さんはすぐに迎えに来るからね』などとお母さんとの別れをたいしたことではないと説得しようとします。ますます子どもは泣きます。ベテランで子どもの扱いの上手い保育士は『今日はブロック遊びをしましょう。』とすぐに子どもを他の子どもの遊びの中に入れて、『お母さん。今のうちに早く職場へ行ってください』と眼で合図をするものです。ネガティブな感情を引きずらせないことが大切です。
 脳には注意の瞬きとの概念があります。人間の脳はかなりの情報を処理することができるそうです。ところが反応する身体は一つなので、一つの刺激に強く反応して、他の刺激には反応しにくいというのです。ブロック遊びに反応すれば、お母さんとの別れに反応できないのです。ネガティブな刺激に反応しないようにポジティブな刺激を上手く使うことが必要となります。ネガティブなことにきちんとした反応をするために理性などを持ってくるよりは、ネガティブなことをポジティブなものへと考え直す手法を考えるのがベターではないでしょうか。失敗を嫌なことと付き合うよりは、失敗は成功の素と考えてそっちのほうへ注意をもっていく方がよいと思うのです。


 諸活動と観念論
 
 祭りなどの事業計画を考えていると、欧米風の観念論と日本的な自然論との考え方の矛盾が大きな問題となることが多い。多くの上に立つ人たちが(学歴の高そうな人が)欧米風の観念論(=科学の知への信奉)となっているからである。まず、祭りをやる目標は何か?続いてそれを実施するための人的・金銭的に必要な物は何か?結果としてどのような効果が認められるか?などの分析と計画書が必要となる。これらの計画書を「」付き頭のよい人が読んでゴーサインを出すことになる。上手くいったらゴーサインを出した人が評価され、失敗したら、計画を立てた人が責められる。ですから誰も積極的に計画などを立てようとは思わなくなってしまいます。「」付き頭のよい人が立てた計画は観念論ですから、頓挫することが多いものです。頓挫した計画を『上手くいった。上手くいった』とインチキ評価していることが多いのです。
 自然論的な考え方からすれば、公園がきれいになって、祭りもやれるようになった。清掃のお手伝いをしてくれる参加者も増えて、自主防災で購入したテントもある。自治会費も飲み会を減らして余裕が少しある。みんなで祭りでもやるかとの発想になる。やってみたら、お手伝いをしてくれる人が少なく役員が大変だった。隣の町内からもたくさんの人が来たから、今度は合同でやってお手伝いの人数を多くしよう。自動車・自転車整理は警備会社に頼もう。防災訓練を兼ねてやれば、補助金の活用も可能である。などとの展開となる。
 ところが観念論者はこうした自然的な成り行きでの活動にまったをかける。食中毒になった場合はどうなる?警備会社の補償はどうなっている?祭りの後始末はだれがやる?公園のなかに車を入れて公園が傷まないか?人数の把握はどうする?などなど計画書に様々な批判をする。しかし観念論者なので自分がやろうとするわけではない。自然論者は『人数が多くなるとブランコが危険である。私が縛るから縄を買ってきてもよいか』と提案する。頭でっかちでない上司は『超勤予算がまだ残っているから3万円までなら使える』とかの提案となる。
 
 自然の観察の中で
 自然とか生物とかを素直に観察していると学ぶことがたくさんあります。人間以上に緻密なる生物や自然の仕組みや摂理に驚かされることがたくさんあります。人間を特別な存在と見るのではなくて、自然の中の一部とみることが理にかなっているでしょう。自然は人間の征服の対象ではなくて、人間も含めて自然の一部として共生していくことが必要なのではないかと思います。西欧哲学的に自然と精神の分離をしてしまうことは無理がある。日本人は最初から自然と人間は分離したものの考え方をしていない。大きな岩も信仰の対象となるし、白い蛇は神の使いであったり、狐は正一位で身分が高い。大きな木も杜の象徴となる。自然の中に大きな神を感じてきた。キリスト教関係者にはとても申し訳なく思うのですが、私には磔にされた人間を拝むのはちょっと理解できない。むしろ、自然の中に神を感じたほうがナチュラルではないかと思う。
 自然と人間の心を分離すると自然はたんに人間が作る対象としての物となってしまう。つくる・うむ・なるとの考えが反哲学論で示されていた。なるとは自然になるとの自然主義的な考えで、つくるは人間中心的(=観念的)・うむはその中間的な考えかたであるという。私は日本人的にある・なる・つくるかなと思っています。まず人間も社会も地球も含めてあります。そしてそのある関係の中で物事がなっていく。そのプロセスの中で人の働きかけがあってつくるとなっていくと思うのです。科学の知を信奉する人たちは自分達を客観性・普遍性・論理性があると思っています。けれどその奥底が観念論が基本になっています。まず観念的な自然を大切にみたいな論を立てます。でもそれ自体が観念の塊なので、現実の自然と遊離しています。自然を大切にとの論に対して、生きて行く経済的な営みが大切。まずは経済との論もありうるのです。同様に個人の尊重に対して集団生活の重視・国際化に対してはローカルな地域を大切に・英語教育の重視に対して日本語のきちんとした学習を・身体を育てるに対して心を育む・除草剤の禁止運動と除草剤も必を育むなど論はいろいろあるので、どの論を立てるかで、科学の知そのままがぶれていきます。ですからありのままの自然(人的要素も含めて)の中で今後の方向性を探していくことがベターではないでしょうか。


 
知能から考えてみると
 
中世ヨーロッパの大学は文法・修辞学・論理学の「三学」と、算術・幾何学・天文学・音楽の「四科」のあわせて7科であったという。ですからまあ今流に言えば偏差値の高い人の勝ちということになります。勝ちとなるだけではなくて人間的な価値もリンクされていたのかもしれません。ガードナーの多重知能理論の言語的知能・論理数学的知能・音楽的知能となります。でもこれ以外に身体運動的知能・対人的知能・個人内知能・博物的知能・空間的知能などもありますから、西欧哲学的な観点からはこれらはあまり重視されていなかったと思われます。しかし、実際の現場では身体運動的知能・対人的知能・個人内知能・博物的知能・空間的知能はとても大切なものとなります。今の時代で偏差値重視の教育が限界に来ていると同様に、知能的な観点からも観念論的な考え方よりも自然論的な考え方に立ったほうがよいのではないかと私は思います。
 知能のことを障害児教育の観点から考えてみます。すると障害児教育のやり方が違ったものになります。劣っている知能や遅れている知能を補償しようとするのではなくて、優れている知能を積極的に伸ばそうとすることの方が、子ども本人にも社会にも有意義であると考えられます。
 算数や国語は苦手だけれど運動能力と空間把握能力は優れていて、重機を動かさせたら自由自在との人も多いものです。こんな人は小さい頃からラジコンの飛行機の操縦も得意だったことでしょう。やる気のない科目にはっぱをかけるよりは得意な科目から伸ばして、それを他の科目にも波及させていった方が能率的であるでしょう。
 国語・算数・社会・理科・音楽・体育・図画工作・英語といった科目でも考え方を変える必要性を感じます。国語英語は言語的知能・算数理科は論理数学的知能・音楽は音楽的知能・体育は身体運動的知能などがメーンとなるでしょう。でも国語英語でも言語的知能でない知能を使って学習すること知能から考えてみると可能となるでしょう。動いたり、歌を歌ったりして学習することも可能です。国語の先生は言語的能力に優れ、音楽の先生は音楽的能力に優れ、体育の先生は身体運動能力に優れて人がなるものです。結果的に子ども達が何でこんなことも出来ないかと嘆きます。でも英語の先生でも逆上がりの出来ない先生は多いものです。各科目での多重知能理論を活用した指導方法の手法を開発することが必要であると思います。そのためには算数の先生が体育を教えたり、体育の先生が理科を教えたりするパターンを学校教育に導入する必要性があると思います。今の学校教育は西欧の教育方針の延長線上にないわけでもないからです。

 まとめて考えてみると
 
客観性・普遍性・論理性を主とした科学の知が実は観念論をその基盤に持っていたというのはとても面白いことです。逆に臨床の知である主観性・個別性・宇宙性は人間の観念的なものから解放されて現実そのものをとらえようと考える自然主義的な考え方です。科学の知と臨床の知は相反するものではありません。科学の知が臨床の知より勝るとか臨床の知が科学の知に勝るといった関係でもありません。相互補完関係であると思います。しかし一般的に科学の知が観念論と無関係のように思われていることに問題があると思うのです。科学の知は心底、観念論から出発しています。このことの発見は大きな意義があるのではないかと私は思うのです。

 

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