子どもたちから気づかされたこと(2014・2・12)

児童健全育成指導士 田中 純一

       

    子どもたちから気づかされたこと1 縄とび短い

 縄跳びをみんなでやっていました。小学1年生の女の子が私のところへやってきました。

「先生。縄跳び短い。」身長の低い子だったし、まだ小学1年生です。どう考えても縄跳びが長すぎることはあっても短いことはないのです。何度か話した結果、縄跳びに対して、彼女の身長が短いとのことがわかりました。

 子どもって面白いなあとの考えもあります。でもよく考えてみると、日常の私たちの思考の方が自己中心的なものであることがよくあります。客観的に観るとか相手の立場にたって考えるなどというのはとても難しいことです。発想の原点としては、縄跳びがあり、自分の身長があり、自分の身長が短いと客観視することの方が素晴らしいことなのかもしれません。

 いじめの構造の中で、いじめる人、いじめられる人だけでなく、周りではやし立てる人、傍観者の4構造があるとの説があります。私はそれに担当する教員も入れて5層構造かなと思っています。4層構造であれ、5層構造であれ、縄跳びからみて、自分の身長が短いというような別の観点から見てみることが必要なことだと思います。

 教員・保育士・児童館職員・児童クラブ職員はいつも自分の立場で物事を考えることが多いものです。子どもの立場、親の立場などにも立ってみることが必要ではないかと最近感じています。

 

    子どもたちから気づかされたこと2 抱っこ抱っこ

 しゃべれるようになると『抱っこ、抱っこ。』とうるさく騒ぐ子どもがいるものです。乳児と違って重くなっているので、お母さんも閉口して、『もう大きいのだから』と叱ってしまうこともあるものです。私は子どもを理解するためにはunder stand(=下側に立つ)することが大切と思っています。そこで『抱っこ、抱っこ。』と騒ぐ子どもの目線の下になって様子を観察することがよくあります。すると不思議とにっこりして、駄々をこねるのをやめることが多いものです。これはなんでだろうと考えてみました。

 幼児期の子どもは乳児時代のようにお母さんと同じ、もしくはお母さんより高いところにいたいと思っています。ところが抱っこをされる時代が終わると、お母さんは上目線となってしまいます。『抱っこ、抱っこ。』や『高い、高い。』をせがむのは抱っこや高い高いをして欲しいのではなくて、昔のように私の下に来てとの要望ではないかと感じました。

 抱っこや高い高いをせがまれたら、お母さんやお父さんが子どもを高いところに置いて、自分が低くなってあげれば幼児は納得することに気がつきました。幼児だけではなくて、小学生にも通用する手法です。お試しあれ。

 

    子どもたちから気づかされたこと3 痛いよ痛いよ

 『抱っこ、抱っこ。』の年を過ぎて、未満児を卒業すると、親も抱っこや高い高いをしてくれることが少なくなるし、さみしい。『抱っこ』を要求すると『もう赤ちゃんじゃないんだから』と言われてしまう。そこで転んだ時などに『痛い、痛い』と大騒ぎをして、自分の方を見て欲しいとアピールすることになる。

 転んだ子どもがいたら、一つはそこの場所まで行って、子どもの視線の下になり(understandして)『すごく強く打ったけれど大丈夫?』と聴いてあげる。子どもは『僕はもう大人だから大丈夫』というかもしれない。また泣くのを無視していて、立ち上がったら、『すごい。よく頑張ったね』とのパターンも良い。同じくらいの友達に介抱させてあげるのも一つの手法である。

 『そのくらいで泣くんじゃない』みたいな言い方はあまり上手くいかないことが多い。でも案外やってしまうパターンです。

 反対に本当に強く打ったのに痛くて動けないようなときはすぐに対処が必要です。未満児までは肌を離さない・年少組から保育園まで肌を離して手を離さない・小学生前後から12歳までは手を離して目を離さない・中学生からは目を離して心を離さないことが大切と昔の人は教えています。

 

    子どもたちから気づかされたこと4 ばか・あほ

 抱っこを拒否され、泣いても相手にされなくなると、言葉でアピールします。保育園の年中児前後から悪い言葉を覚えてくるのも、周りの影響もあります。同時に一番は子どもがそうした言葉を必要とされ始めたからでしょう。

 『馬鹿・あほ』など悪い言葉を使ってはいけないとたしなめることも必要ですが、その裏側にある心理を読み取ることも大切ではないでしょうか。

 私の元同僚はその点は上手かった。『森田のあほ・ブス』などと悪口をいう男の子がいると『田中先生。○○ちゃんが私のことを好きだと言っています。』『じゃあ結婚してあげてください』なんて会話をしていました。男の子の悪口や汚い言葉は自分をアピールしていることが多いものです。悪い言葉を使わない子どもでも内言としては持っているものです。劇遊びやごっこ遊びである程度発散させると安定していくものです。

 じゃんけん悪口遊びがあります。じゃんけんをして勝つと相手の悪口を言ってあげます。それを倍返しで答えるというものです。勝った人が『とも子ちゃん。あなたは弟いじめがすごいんですって。何か毎日馬鹿とかあほって言っているんですって。』『そうよ。キックして泣かしているわ』なんて感じです。本当ではないのですが、そんな風にごっこ遊びで自分の心を見つめることもたまには必要でないかと思います。

 抱っこ→痛いよ→バカなどなど子どもは自分の要求が満たされないと次々といろいろな手段をこうじます。これは大人も一緒ですが。子どもの訴えをそのまま受容するとのことではなくて、その本当の意味をとらえて対処することが大切と私は思っています。
 今の世の中で大切なことはたんに受容共感することではないと私は感じています。本来の受容共感の意味をロジャースの提唱した意味を学習しなおしていくことが必要と思います。

    子どもたちから気づかされたこと5 悪さをすること

 抱っこ抱っこが拒否・痛いよで無視・馬鹿あほで叱られれば、残りは悪いことをして、アピールするしかありません。悪いことをするというのはそんな意味もあるように思います。

 見えるように悪いことをしているうちは良いのですが、それでも上手くいかないと、見えないところで悪いことをするようになります。他人がそれで苦しんでいるのをみて楽しむような形になることすらあります。これは子どもでもありうることです。

 こんな風に悪質にならないうちに対処をしておくことが必要です。でもそうなってしまったら、それなりの専門的な対処も必要となる場合もありますね。

 

 抱っこから始まって悪意のあるいたずらになるまではいろいろなパターンがあると思います。それぞれの段階で子どもの持っているニーズをしっかりとunderstandして、より積極的な方向へそのニーズを発揮させるような手法を見つけることが大切と私は思います。観念的な受容共感ではなくて、より実践的な動きが必要と思います。

 悪さを出来るほどに行動力と体力と知恵がついたのです。その力を野球やサッカー・お手伝い・ゴミ捨て・重いものを運ぶなどに使わせて褒める方向へ持っていくことが必要と思います。

 朝の連続ドラマ「花子とアン」で花子ちゃんは10歳にならないときから労働力でした。私の小さい時も子どもは大切な労働力でした。父が教員をしていて、農繁期に学校を休ませる保護者に「学校によこしてください」と頼んだら「あんた、代わりに働いてくれるのか?」と言われたことがあります。ほんの50年前の話です。

 子どもたちに勤労経験をさせたいものです。

 

    子どもたちから気づかされたこと6 俺知らない

 『だあれ。これをいたずらしたのは?』との問いに一番に『おれ知らない』という子どもはたいていやっていることがあります。本当に知らない子は知らないなどと言うことはないものです。黙っています。

 貴重なものがなくなった時に、私はプロとして、きちんと探してみます。この時に探すだけではなくて、隅々の清掃も兼ねてやればストレスが減ります。そうしておいて、『○○ちゃんの財布がなくなったのだけれど、みんなで探そう。』と提案します。見つけてくれることが多いものです。でも、探したはずのところから出てくることもあります。本人も一時的にとってしまったけれど、処分に困っていることもあるからです。『ありがとう。探してくれて。』といっておいて反応を見ます。そして『こんどしないでね』『はい。わかりました』とのパターンもあるものです。

 物を探したり、敷地内をきれいにしたりする仕事を軽視する人がいます。また、単純労働はと考える人もいます。私が養護学校に勤務したいてころ、「単純なことも大切」と主張すると、「障がいがあるから、単純労働と考えている」との批判をされることがありました。
 問題は単純労働やブルーカラーや汚い仕事やきつい仕事を軽視しないで、みんながやれるようになることが一番大切との考えにしていくことだと思います。
 ある学校の校長先生はいつもマイ掃除機を持って、町内を巡視していました。新潟市内のある老舗和菓子会社の社長さんがゴミをさっと拾うのを見たことがあります。日本人は「始める前に美しく」をモットーに考えたらと思います。それが日本の良さではないかと私は思います。
 物がなくなった時に、率先して掃除をしながら、探す職員、上司であるべきと私は思います。

 

    子どもたちから気づかされたこと7 186・187・188・・・

 要領のよい子どもと悪い子どもがいるものです。私も要領が悪い仲間ですが。

ある時、縄とび200回をやろうと提案しました。きちんと200回数える子どもがほとんどですが、ある子どもは『1・2・・・9・10・20・30・40・50・・・100・・200』と20回で200とした豪傑もいました。

 ところが縄跳びが上手い子どもなのに、2分経っても終わりません。近くで数えるのを聴いてみたら、『186・187・188・・・』と縄跳びが3回周っているのですが、数は一つしか進んでいないのです。しかも途中数を数えるのを間違うからなかなか終わりません。

 その子どもは高校生時代にボクシング部に入り、活躍しました。縄跳び短いと言った女の子のお兄ちゃんです。186・187・188・・・と数えた子どもが果たして損をしたのかとは言い切れないのではと私は思います。要領が悪い分だけ容量が増加したともいえるでしょう。

   大きな理想小さな努力
 大きな理想を持つことはとても大切だと思う。でも人間一人は小さな存在なので小さな努力しかできない。小さな努力を積み重ねて、すこしづつ仲間が増えていく手法が必要と私は思っています。
 2年前から始めた日本子ども福祉専門学校での雑草抜きとクローバーの種まきがやっと実って、入り口周りがきれいになりました。また、平島公園の背割り排水の横もクローバーですっかり緑になりました。
 ゴミゼロ運動・花と緑を殖やそう・除草剤をやめようなどの理想を実現し、美しい日本にして東京オリンピックを迎えたいなあと思います。
 そのためには小さな努力の積み重ねですね。

 

    子どもたちから気づかされたこと8 ゆうちゃんが叩いた

 あるときのおやつのことです。女の子が私のところへやってきて、『ゆうちゃんが私のことを叩いた』と言いました。私は『ゆきちゃん。今日は素敵なワンピースだね。誰が買ってくれたの?』と聞きました。『おかあさんだよ』と言って戻っていきました。

 実習生がきていて、この後に『なんでゆきちゃんの質問にきちんと答えなかったのですか?』みたいな質問を受けました。子どもの問いに真剣に答えることが必要だと学習しているからでしょう。

 大人も含めてとくに子どもは言っていることと本音は違うことが多いものです。実際はたまたま混雑していて、ゆうちゃんが自分では気づかない程度にちょっとぶつかったのでしょう。その日、私は多忙でゆきちゃんへの声かけをしていなかったので、『わたしのことを見てよ』とのアピールが『ゆうちゃんが叩いた』との訴えなのだと思います。だから『素敵なワンピースね』と答えました。そんな風に解決することも多いものです。訴えをそのまま素直に受け止めるということと、それにストレートに答えるのとは違うものです。

 

    子どもたちから気づかされたこと9 おやつと栄養補給

 90分の食べ放題はなかなか男には理解できない。酒なしで90分は男にはつらい。女の人には90分はあっと言う間とか。同様に男の子のおやつはたんなる栄養補給で3分もあればよい。ところがおやつを食べながら話すのは女の子には栄養補給以上にレクリエーションであるから30分でも短いこともある。

 こんな違いがあるので、上手い使い分けが必要と思う。

 ジェンダーフリーの考え方は次々と進歩している。第1段階は法的な男女平等であったという。次に実質的な雇用や学習などの機会均等が必要との考え方が第2段階であるという。さらにジェンダーが生物学的問題だけでなく、社会的に作られてきたことへの理解が必要との考えが大切とされた。今は第4段階のジェンダーシンシビィティの段階だという。これはジェンダーが社会的要素で作られたものであることも含めて、ジェンダーの問題に敏感に対処することが必要であるとの考えである。私流に解釈すれば、トイレを新しく作るときに多目的トイレの設置や女子トイレの方が広くなるなどの配慮が必要。また、安全面を考慮した設計が必要となるとのことかなあと思います。

 

    子どもたちから気づかされたこと10 鬼が怖い

 前の職場で豆まきに私は赤鬼をやっていました。保育園の子どもが『鬼が怖いので豆まきに来たくない』とい泣いていました。おかあさんが『中は田中先生だから大丈夫だよ』と言ってくれました。保育園児は豆まきに参加してくれました。

 その豆まきの時です。私が赤鬼をやっていたら、6年生のヤンチャ坊主が赤鬼にキックしてきました。すぐに周りの子が『馬鹿。中は田中先生だぞ』と注意をしました。キックをした子どもはびっくりして、『もうやりませんから、許してください』と謝ってきました。鬼より優しかったり、怖かったり、子ども相手の仕事はいろいろ変幻自在です。

 

    子どもたちから気づかされたこと11 ちいちゃんは大人ですから

 江戸時代から『三つ心・六つ躾・9つ言葉・12文・15理』と言われています。江戸時代には満三歳になったら、つまり未満児を終えたら、きちんとした躾が必要と言われていました。ちいちゃんは2歳10ヶ月から私の家に泊まりに来ていました。保育園の年少クラスになった時のことです。一人で泊りに来たので、回る寿司に連れて行きました。背が足りないので『幼児用のいすを借りようか?』と声かけをしたら、『ちいちゃんは大人ですから』と言われてしまいました。同様に『スプーンを借りようか?』『大人ですから割り箸を使います』

 大人になってもいつも食事をこぼす私としては見習わなくてはと思いました。

 

    子どもたちから気づかされたこと12 大きくなったら

 大きくなったら何になる?というのは時代時代でいろいろある。末は博士か大臣かみたいな時代もあったし、巨人大鵬卵焼きみたいな言われ方もあった。最近ではサッカー選手が人気である。しかし、サッカー選手も野球選手もオリンピック選手がいなくても、日本の社会は揺るがないであろう。しかし、農業・工業・建設業・漁業・サービス業等で底辺を支えて働いている人がいなくなれば、日本は空洞化してしまうであろう。また空洞化しつつあると言われてもいる。

 小さい時から汗水たらして働くことを厭わない子どもであってほしいと思う。大人も努力して働くことを厭わない人間でありたいものだ。

 大きくなったら、みんなのために働くようになりたいとの子どもや人間にと私は思う。

 

    子どもたちから気づかされたこと13 ひまなんだけど

 「ひまなんだけど」と話してくる子どもがいる。何をしたらよいかがわからない子どもである。きっと頭は良いのだけれど、親を含めて大人の言うとおりに動いてきた経験がこんな言葉を出しているのではないかと思う。

 次々とやるべきことを教えてあげるよりは、その子どもが集中できるものをその子なりに探す手法を見つけることが出来るようになることが良いのではないかと私は思う。

「ひまなんだけど」に対して、「私も暇なんだけど相手をして」と問い返すのも一つの手法であろう。

 

    子どもたちから気づかされたこと14 子どもの発想

 子どもの発想は思いがけないことがある。これはなぜかと考えてみた。乳幼児の発達を放送大学院の授業で聴いていた時、このヒントを得ることができた。子どもは一見無駄だと思われることを飽きないで何度も何度も何度も繰り返す能力を持っているとのことだった。つまり、同じことの繰り返しを飽きずにやれる能力があるというのだ。

 科学者の中で思わぬ発見をすることをセレンディピティ的な発見という。セレンディピティ発見とは、何百万回の実験などをして全く偶然的に思わぬ発見をすることがあるとの意味である。またたんに実験の繰り返しだけではなくて、いつも興味と注意と試行錯誤をしていることが必要だというのである。

 乳幼児から小学校低学年まではセレンディピティ的な能力をどうも持っているようだ。言語の発達も同じことの繰り返しを何度も何度も失敗しながらやり、結果的に習得していくというものだ。

 子どもから気づかされたことを書いたのは、こうした子どもたちの普段の努力に学ぶことが大切ではないかと考えたからでもある。

 

    子どもたちから気づかされたこと15 セレンディピティ的発想を

 大人になっても良い意味で子ども心を忘れないとの考えが私は大切と考えている。それは失敗を恐れない。ある程度我慢して頑張って学ぶ。何万回も繰り返していると新しい発想が出てくる。

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