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思わぬこと(2014・3・10)

児童健全育成指導士 田中純一

   思わぬこと1 世の中には思わぬことが多いもの(遊びの指導から遊び場環境つくりへ)

 世の中には思わぬことが多いものだ。私は30年以上、遊びを通して児童の健全育成をするとの児童センターに勤務していた。なんとなく違和感があったのだが、その違和感がなんであるかわからなかった。子どもを遊ばせて健全育成とのことだが、児童館の職員は遊ばせ屋ということになるのだろうか?厚生労働省でも児童福祉法に基づく厚生労働省令38条2項で児童館職員を「遊びを指導する者」と規定している。これが私の疑問であった。

 結論的に言えば、目的と手段は違うことと考えることで方向性が見えたように思う。子どもたちは子ども同士の遊びを通しての関わり合いで成長する。しかし、子どもたちが安心安全に遊べるようにするためには児童館職員が遊んでいて良いのであろうか?子どもたちが仲間同士で上手く遊べるために、遊べる環境つくりをすることが、遊びを指導する者との本来的な意味と考えることが必要だと考えるようになった。

 思わぬ遊びに対する考えが思わぬ展開へと発展していくことになった。

 

   思わぬこと2 遊びの考え方(全ての活動に働き・学び・遊びが包含されている)

 児童厚生員の主な仕事を子どもの遊び場環境つくりと考えた。これ以後実習生にも子どもの遊び相手ではなくて、遊び場環境つくりと子どもの安全管理を主な実習内容とし、子ども理解のために、子どもの目線の下側に立ってみてみることを提案することになった。英語で理解するがUnder standであることをネット仲間から指摘を受けたのも思わぬことで理解を深めることとなった。

 遊びに対する疑問もこのころに発生した。私自身は小学校の教員をしていたこともあったし、子どもの親として遊んでばかりでも困るとの考えもあった。このプロセスで日本人の遊びの考え方と欧米の遊びの考え方では違うのではないかということに気づいた。

 欧米の考えではたとえば釣りはfishingで一つのスポーツである。キャッチ&リリースとか剥製を作って終わりとかになる。日本では釣りは遊びの要素でもあるが、釣ってきたものを食用にするのも大きな要素である。つまり日本の場合、釣りという行動の中には遊びと働きと釣り方の学びが包含されているのである。

 遊びを働きや学びと分離しないでメリハリをつけて考えるのが良いと思う。私は教員や児童厚生員時代に仕事が楽しくて、1日10時間以上は働いていた。それは仕事ではあったが、学びもあったし、遊び的な要素もあったからだ。

 

  思わぬこと3 働きへの気づき(働くは 金をかせぐじゃ ないんだよ)

 定年退職して、公園整備で草取りをしていた。70歳くらいの方が寄ってきて『君はそれでけ身体が動くのになんで働かないのか?』と言われた。私としては環境整備が児童健全育成と考えている。お金になるかならないかを問題にしていなかった。それでびっくりした。さっそく調べてみたら、働くとはいろいろな意味があるが、お金を稼ぐとの意味ではなかった。むしろ人のために動くとの国字だった。国字とは躾とか峠のように中国には適切な漢字がないので、日本人が作った漢字である・

 働くことがお金を稼ぐこととしか考えられないのはずいぶんとさみしいことでないかと思う。

放送大学院受験のために英語学習を始めた。ときたま外国映画を観るが、ドル札がたくさんあって満足みたいな光景に出くわす。何が素晴らしいのか、持ったことのない私には理解できない。きれいな自然と仲良しの仲間、新鮮で美味しい食べ物に価値があるのではと私には思えるのだが。

 

   思わぬこと4 学ぶはまねるから(まねてみて やってみるよ 何千回)

遊び・働きとやってきたら、学ぶを考えざるをえない。学という字が建物の中で子どもがいるので、学は学校の専売特許みたいに考えてしまう。でもひらがなでまなぶはまねるもしくはまねぶから来ているという。しっかりと達人や先輩の動き等を見て、まねることが基本にあるという。ですから、学ぶことは真摯に真似ることが必要となる。

ところが自ら考えて学ぶみたいなことが言われ始め、きちんと真似ることが疎かにされてきているのではないだろうか?真似るということは何度も何度も基本的なことを繰り返してやってみるしかない。折り紙などを覚えるためには最低100回くらい折らないと上手く手におぼえさせることが出来ない。同じことを何度も繰り返すと飽きるので、速く遅く・大きく小さく・一人でみんなで・集中してながらでなど変化をつけて頑張ることも必要である。

学ぶとは真似るで何千回もの繰り返しの中で、弁証法的に質的な飛躍がなされることがある。無駄な繰り返しと失敗がなければ創造的なことは出来ない。そういう意味で、我慢と諦めが創造性の原点でもあると思う。

私は年少児どうでも作れる動く簡単面白い折り紙を創作している。新しい折り紙を作り出す前に1000回以上は習った折り紙を練習している。すると手が考えなくても折れるようになる。1000回を超すと定着が図れるだけではなく、手が飽きて、新しいものを作りたくなってくる。子どもからunderstandしてことなどを思い出しながら、作っていくとオリジナルで子どもが喜ぶものが出来る。
 動くものにすること、色の変化をつけること、簡単なものにすることが私の創作折り紙の原点である。イオンのラウンジでコーヒーを飲みながら、試作し、隣の見知らぬ子どもに遊んでもらってまたチャレンジしている。
 最近では見知らぬ子どもがイオンでの折り紙知り合いになり、可愛い子どもがよってくくれてうれしいこともあります。
 http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/origami/3maiirogae.html
 日本語と漢字の関係を考えるときに音読みと訓読みがありますが、たんに読み方の違いと考えるのは日本語の深さを理解していないと思います。学ぶは音読みがガクで訓読みがまなぶというだけではないことです。和語としてのまねぶがあり、漢字を当てたら学の字になり、中国ではガクと発音するとのことです。学が先にあったわけではないのに、学の漢字に惑わされすぎでないかと思います。それはちょうど、なんでも英語でケアみたいに表現するとナウいみたいなのと一緒です。日本語の支え合いの方がケアよりも私は好きですね。ケアには私介護する人・あなた介護されるひとみたいな感じがありますから。学校教育もそこらへんのことをきちんと伝えて欲しいと思っています。

フォームの終わり

 

 

  思わぬこと5 気づきはUnderstand(上からは 見えないものが ありますよ)

私は新潟県の児童厚生員などの研修会で、子どもたちから学んだことをみなさんに伝えたいと思っています。研修会に出かけたついでに他の講師の方のお話も聞いて来ることがあります。自分自身で気づかなかったことを教えてもらい、とても学びになることがあります。柏女霊峰さんの講義で「3歳児神話の崩壊」や「臨床の知とは何か」などはとてもためになりました。反対に外国の偉い人の名前や理論がやたらに出てきて、よくわからないこともあります。とても頭が良い方なのでしょうが、日本の子どもの現状把握が違うのではないかと思うこともあります。

 そんな時、理解するはUnderstandだよととブログに書き込みをいただいて、目からうろこの思いをしました。児童健全育成ではよく「子ども理解が大切」と言われています。しかしながら、はたして子ども理解とはなんであろうか?と私は思いました。理解は理屈をもって解剖して理由を探るとの意味でしょう。英語では理解するはUnderstandです。これはunder=下側に stand=立つとの語彙です。つまり物事や子どもを理解したかったら、子どもの下側に実際に立ってみて、その行動パターンや思考パターンを考えることが必要なのではないでしょうか?

子どもたちの本当に下側に立ってみてみると、見えてくるものがあるのです。

 

   思わぬこと6 3歳児神話の崩壊(三歳が すべてを決める わけでなし)

10数年前の柏女霊峰先生の新潟県の児童厚生員の研修会で学んだことはたくさんありました。午前中に私は「ゲーム運動遊び」の研修会をやりました。私の公休日だったので、そのまま柏女先生の講義を聴きました。その中で三つ子の魂百までもとか母親のアタッチメントが大切とのことから、日本では三歳児神話がある。三歳までは母親が子育てをするのが子どもにとって良いとのことがあるが、証明されているわけではない。継続調査の結果によれば、三歳まで母親が手元において育てた場合と未満児から保育園で育てた場合で子どもの発達に差がなかった。そしてどちらかといえば、未満児保育を経験した子どもの方が社会性の面では長けていることがあるとの調査結果の話であった。

三歳児神話があるために共働きをしている母親が無用なプレッシャーを受けているが、それは間違いだとの話であった。

私は放課後児童クラブの担当をしていたし、自分自身が共働きだったので、ずいぶんとこの話は自分自身としても嬉しかった。そして、子育てで大切なのは親子が一緒にいる時間の長さではなくて、質であるとのことをアピールできたことは嬉しかった。

 

思わぬこと7 三歳児神話の反対(専業で 主婦をやるのも 大切だ)

 女の人は家の中で子どもをみるのが一番とか、三歳までは母親が働かない方が良いとかが正しいとは限らない。同様に専業主婦も間違いではない。ここ数年、女の人も働くのが当然との考えが急激にのしてきた。働いていない女性には「裕福で働かなくてもよくていいわね」みたいな皮肉を言われていることもある。これもまた間違いと私は思う。

 世の中の男女の在り様はいろいろである。男の人が稼ぎ、女の人が家を守るのもいいだろうし、男女共に外で稼ぎ、家のこともやるのもいいだろう。もちろん専業主夫があってもよい。おばあちゃん・おじいちゃんが子どもの面倒と家事をやってくれるとのパターンもある。いろいろでよいと思うのである。

ところで外で稼ぐと表現したのは働くことと稼ぐこととは同じではないからである。生活するために金銭を得ることは必要である。これは稼ぐである。働くは人のために動くである。家で調理をやったり家事をするのも働きである。働きは必ずしもお金を稼ぐとは一緒ではない。もちろん仕事で稼ぐことと働くことが一致していることもあるが、意味が違うことも考えておくことが必要である。

 最近では専業主夫がナウくて一番みたいな主張があるが、どれかを一番とするみたいなのは考えものだと私は思う。

 

思わぬこと8 みっつと三歳は違う

 江戸しぐさのなかに三つ心・六つ躾・九つ言葉・十二文・十五理(みっつこころ・むっつしつけ・ここのつことば・じゅうにふみ・じゅうごことわり)というのがあります。

http://tomoyanjun.web.fc2.com/edosigusa.htm

 三つ子の魂百までもとの言葉でついつい私はみっつを3歳と考えてします。でも昔は数え年で年を数えていた。三つまでは温かい愛情で子どもをみるというのは実は3歳未満までのことである。数えで考えれば満三歳になったら、よっつである。いわゆる未満児は三歳未満児との意味だが、未満児までは、愛情深く育てることが必要である。しかし、3歳から4歳5歳は躾が必要となる。保育園児も年少児になると、ずいぶんとおしゃまになる。我が家に泊まりに来ていたちいちゃんもお寿司屋に連れて行きました。

「ちいちゃん。子ども用のいすを借りようか?」と訊いたら、

「ちいはもう大人ですから、子ども用いすはいらない」と言われました。

 未満児を終えたら、基本的な躾をする必要があります。六つ躾とは5歳までにきちんとした躾をしておかなければならないとの意味ですね。

 小1プロブレムというように、小学校1年生になって適応できない子どもが増えているのは、小学校の教育方法の問題もあります。同時に保育園や幼稚園時代にきちんとした躾をしなかったことも原因があると私は思います。小学生入学前に施設と保護者はきちんとした躾をしておく必要がありますね。

 未満児で考えなくてはいけないことがあります。法的に4月までに3歳未満の子どもは未満児のクラスに入ります。でも4月生まれの子どもはすぐに3歳になります。3歳になれば数え四つですから、愛情だけの対象から、躾の対象になります。行政や教育の分けるための学期と子どもの年齢差があることを考慮することが必要です。未満児には数えみっつ(満2歳)のこと数え四つ(満3歳)の子がいるのです。

 

思わぬこと9 九つ言葉・十二文・十五理

 保育園幼稚園時代にきちんとした躾をして、小学生低学年では九つ言葉と言われるように、すこしは世辞も言える子どもであってほしいと私は思います。世辞とは社会的で生きていくためにどんな人にも失礼にならないように挨拶が出来たり、世辞が言えることです。世辞とは自分の立場ではなくて、自分の親の言葉を相手に伝えることが出来るようなことです。「先生。母が『いつもお世話になっております。今回の保護者会には所要があり、出席できません。よろしくお願いします。』と言っていました。」くらいはいえるようにと江戸しぐさでは提案しているようです。

 小学校低学年などを相手にしていると『あなたはなんで禿げているのです?』などと平気で話す子どももいます。事実だから何を言ってもかまわないみたいな風潮を私は危惧しています。

 十二文(ふみ)も小学生時代の間にきちんと文章を書けるようにおくことの意味です。日記や作文をもっと重視し、PISA型読解力を高め、21世紀社会に適応できるようにと私は感じています。(PISA型読解力=プログラム・インターナショナル・スチューデントア・セスメント=生徒の学習到達度調査」(PISA2003:Programme for International Student Assessment 2003=国際学力調査)

 江戸しぐさで提案されていることはなかなか先進的な考えです。それだからこそ、寺子屋教育を含め日本の教育は歴史的にも頑張っていたのです。

 中学生を卒業するまでに15理(ことわり)のようにある程度世の中の理を理解して、暴走族等にならないようにと思っています。でも失敗はいっぱいありますがね。

  小1プロブレムといって、小学1年生になって、集団適応できない子どももいて問題になっています。もちろん小学校教育の問題もあります。同時に保育園や幼稚園が本来的に躾をきちんとしなければならないのに、やっていない点も一つの原因でもあります。保育園は保護育成と過保護となり、幼稚園的な考えはフレーベルの子ども中心的な考えが強すぎるように思います。

 自由保育みたいな考えの根拠もそこにあるように思います。ある意味では、自由に子どもをさせておけば子どもが伸びるというのなら、何もしないで職員は遊んでいたらよいみたいなことにもなります。

 ヴィゴツキーの提案する子どもの発達のための最近接領域=今ある子どもの次の一歩前を考える領域を提案するためには日々の研修が必要となります。子どもたちの発達は素晴らしいものです。満3歳に近づいたら、きちんとした躾をする。小学生になったらきちんとして日本語が話すことが出来ることが必要ではないでしょうか?その意味で、児童館職員が子どもレベルになって、フレンドリーを言いすぎるのに私は不安を覚えています。

 保育園幼稚園年少からきちんとした躾を。小学生にはきちんとした日本語を。小学生高学年は文章をしっかり書けるようにすることが必要と私は思います。しかもヴィゴツキーの最近接領域の考えを使えば、実は、保育園年中児童からきちんとした日本語が使える萌芽を提供し、小学校2年生からは少し長い文章が書けるようになる芽生えがあり、小学校5年生では人生を考える子どももいるということです。

 保育園の年中児童が園長先生に『先生。人生ってなんだかわかります?人生は我慢と諦めも大切なのですよ』と話したり、小学校2年生の女の子が252字の原稿用紙で103枚作文を書いたりすることもあるのです。10歳の少年が真剣に世の中のことを考えていることもあるのです。私は背伸びをさせるとのことではなくて、もっと子どもの能力を信じるべきだと考えています。

 

思わぬこと10 始める前に美しく

 平島公園に2012年に東青山ひまわりクラブの子どもたちが遊びに来てくれた。せっかく来てくれたので、遊び前に平島公園の落ち葉やゴミ・石拾いをやってもらうことにした。頑張ってくれたので、ご褒美にチョコレートをプレゼントした。この時に子どもたちに

「平島公園に遊びに来た時は、公園をきれいにしてから遊んでください。」とお願いした。

数週間後ひまわりクラブの1年生を含めて、東青山小学校の1年生が学年で社会見学みたいな感じで遊びに来ました。ひまわりクラブの男の子が担任の先生をつかまえて、

「先生。この公園はきれいにしてからでないと、遊べないんだよ」と話をしてくれました。それ以来東青山小学校を含めて、ちょっとでも良いから、ゴミ拾いをお願いすることにしました。

 よく来た時よりも美しくとの提案がなされます。でも子どもたちは『なんで人のゴミを拾わなければならないのか?』との疑問を持ちます。私にはこれは当然のことだと思います。そこで来た時よりも美しくではなく、始める前に美しくとの提案をしています。

 始める前に美しくしておけば、終わった後に忘れ物のないようにすれば、汚れたり、ゴミの落ちていることはほとんどありません。ぜひこれからのみんなの方針にして欲しいなあと思います。

 

   思わぬこと11 ごほうびについて

 元職場での保護者との話である。草取りをした後に、子どもたちにローソンでから揚げ君を買ってきてご褒美に提供していた。ある保護者が『物でつるのはいかがなものか?』との話が出た。私はその点について考えてみた。でも大人もたまにはボーナスが出たり、給料がもらえるから仕事をしていることもあるではないか?よほどの人でないとボランティア精神だけで仕事をすることはない。

 私は成績が良くなったらご褒美に何かをやるともので釣るのはよくないと思う。しかし、大人であれ、子どもであれ、一生懸命草取りやゴミ拾いなどみんなのために働いたときはご褒美があるのは当然ではないかと考えるようになった。

 大人のボランティアについても考えてみた。本の読み聞かせとかのボランティアで来ていただいても上手く子どもにミッとしないこともあります。それよりも草取りボランティアとかゴミ拾いボランティア・木の剪定ボランティアなどが誰にでも出来て役に立っていいなあと思います。余裕が出来たら、子どもたちに少し、折り紙とか草笛を教えたらするそんな普段着のボランティアでありたいものです。そして草取り・ゴミ拾いなどのボランティアには昼食くらいは用意したいものです。私はそんな風に感じています。

 

思わぬこと12 ご褒美その2

 退職して、自治会長兼代表になり、飲み会の数を減らし、会議費と渉外費を減らしました。その分、自治会周辺美化活動費を新設しました。

平島一丁目自治会では月に2回、ボランティア活動で平島公園及び平島一丁目地内の清掃活動をしています。それ以外に緊急時とか必要な時は、お願いをして集まってもらい、草取り・ゴミ拾い・自治会内街路樹の花植え等をしたときは、周辺美化活動費を活用して、感謝の気持ちを出すことにしました。こうすると、何かがあった時に、みんなに集まってもらえるからです。半日頑張って、お昼弁当代くらいが出てもおかしくないと私は思うのです。

 周辺美化活動費はクリーン新潟の助成金や古紙回収の収益金などを活用しています。多くの方々が参加してもらって、自治会内からゴミがゼロになり、花と緑になってきています。

 

思わぬこと13 会長複数性

 自治会を含めて、私は会を作るときに複数の会長制度をとっています。1人の会長に2人の副会長というのが一般的です。でもこうすると、副会長は会長を補佐することになり、会長の独走をとめることが難しくなります。

 戦時を除けば、複数の体制の方が上手くいくことがあります。江戸時代の藩は2人の家老が基本的なことを決定し、藩主は同意するだけだったみたいな話を聴いたことがあります。2人の家老の意見が食い違った時のみ、藩主の出番となります。

 

 自治会やボランティア団体などは複数の会長がいても問題がないと思います。3人合議みたいにやれば、一人会長の独走を防ぐことが出来ます。ただし戦時とか緊急事態の時はやはりトップダウンで決定しなければならないこともあります。

  考えてみると、山遊びは一人ではいきません。怪我をして動けなくなったら、致命傷になることもあります。2人以上なら大丈夫です。正直な話です。相手がどうしてもいないときに山菜採りしたくなり、衛星携帯電話を検討したことがあります。スマホくらいの大きさであったので、高いけど買おうかと心が動きました。でも電波を飛ばすためにアンテナを担いで動かなければならないと教えられて諦めました。

 仲間が人間には一番ですね、人という感じが支え合って出来ている所以ですね

 

思わぬこと14 自分では当然と思っていること スリーパワーでの遊び

 ホームページや研修会のレジュメや講演会などでいろいろなことを私は書いています。ふと考えてみると、自分では自明だと思っていることを記録していないことも多いものです。ツーパワー・スリーパワーで遊ぼうなどはその一つです。私は欧米的な個人主義の考えがあまりありません。またいつも異年齢・異世代を同時に相手にすることが多いので、1対1を原則とした活動をするとのことが少ない。自分ではこれを基本としているが、これは一般的でないことに気づいていなかった。

 12人でトランプの神経衰弱をやる場合に、一般的にはトランプが3組で、4人づつでやるのが一般的であろう。私は12人を4グループABCDに分ける。それぞれのグループを3人の子どもがいて、一つのトランプで神経衰弱をやることになる。それぞれのグループは一回ずつめくることになる。でも、どれをめくると教える人・めくる係・とったトランプを持っている係などがあり、1グループ3人にはそれぞれの役割がある。

 このようにスリーパワーで遊べば、途中でお迎えの保護者がやってきても、活動は中断することなく、続けることが出来る。逆に途中で『寄せて』と人数が増えても3人を4人にすればよい。4人目は何をするか?たとえば、カードがとれるように祈る係がいても良いだろう。

 

思わぬこと15 自分では当然と思っていること ダメなことはダメ

 人間は社会的歴史的時間的空間的な制限の中で生きている。当然なことであるが、思い通りにすべてなるわけがない。ダメなことはダメなものだ。

 平島公園の草刈りをするのに乗用式芝刈り機がある。乗用式芝刈り機を格納しておくためにかまぼこ型のビニールハウスが設置されている。このビニールに穴をあけて覗き込もうとしている年中児くらいの子どもがいた。

「ぼく。穴をあけたらダメだよ」と声かけをしたら、お母さんが飛んできて、

「この子は障がい児です。施設の先生から『ダメとの禁止をするな』と言われています。ダメといわないでください」との抗議を受けた。

 障がい児であろうが、そうでなかろうが『ダメなものはダメ』です。ダメとは言っていけないと主張する人たちにはあきれてしまいます。でもそれが正しいかのように主張される人もいるものです。きちんと理由を説明しなさいと言いますが、説明できないことも多々あります。ダメなことはダメ。ならぬことはならぬは大切なことだと思います。

 問題はダメと言って、やらなかったら『良い子だね』と最後を褒めで終わることが大事だというだけです。最後を褒めで終われば、たいていの人は理解してくれるものです。また危険なことをしたときにしっかりと叱れるように日ごろはしっかり褒めたり、認めたりしておくことが大切かなと思います。

 何のために叱るか?それは褒めるためと脳科学者の茂木健一郎さんが言っています。私は何のために褒めるか?それは危険な時にしっかり叱ることが出来るためと言っています。

 

    思わぬこと16 自分では当然と思っていること 私は人の3倍以上褒めている

 ダメと言ってはいけない・受容共感が大切だ・子どもを大切になどとあまりに言われすぎている。私は研修会や講習会で逆にダメなものはダメ・ならぬものはならぬ・しっかり叱ろう・感情を込めて叱ろうなどと主張している。また、危険ことをしていれば、怒鳴ることもある。周りにはカミナリ親父と思われているようだ。

 折り紙を教えたり、カプラをやったり、ダンスを教えたり、じゃんけん遊びをしたり、草取り活動をしたりしている時に、ある時、客観的に自分のこと他人のことをみてみた。そしたら、他の人の4倍は子どもに声かけをしていて、3倍は褒めている。よく児童館・児童クラブの仲間や保護者に『あれだけ怒鳴る人なのに、子どもはよくついていくものだ』と言われることがある。自分でもなんでだろう?と思っていた。でも客観的に自分のことを見てみたら、とにかく声かけの量が多い。『うまい』・『すごい』・『よく考えたね』・『ナイス』・『やるねえ』そしてたまに『ダメだよ』『ダメなことがわかったあなたは良い子だね』などである。

 しっかり叱ったら、危険な時に怒鳴るのはその子が好きだからだ。嫌いな子どもは叱れないし、怒鳴れない。でも相手になる子どもは私がその子を好いているとはわからない。だから声かけをたくさんして、たくさんたくさん他人の3倍は褒めている。でもそれはしっかりと叱るためである。

  玉川大学の岡田明故名誉教授には様々なことを教わりました。岡田先生がよく話されていたことは「演劇の世界も含めて叱ることは難しい。それ以上に褒めることが難しい」とのことでした。ちょっと褒めるとその気になって高慢になり、進歩しないこともある。またある人を褒めると他の人が「なんであの娘だけが」と非難やひがみになることがある。上手く褒めることが必要であると教えてもらいました。
 みんなの前で特定の人を褒めるのは本当に難しいと思います。集団として1年生は頑張ったとか褒めることはできるが、個人を褒めるのはマイナス面もある。そこで、個々人を褒めるときはこっそりと私は褒めるようにしている。叱るときはしっかりと叱るけれど、あとで「〇〇君。代表して怒られ係になってくれてありがとう」といっている。
 勢い、元気よく叱り、静かに褒める。だから他から見ると叱ってばかりのように見える。でも褒めている回数の方が3倍であると私は思っている。でないと子どもはついてこない。
 前の職場の理事長さんにも私はよく叱られていた。みんなの前では私への注意が多かったので、みんなは私が理事長に叱られてばかりと勘違いされていたようだ。でも実際は誰もいないところで「お前がしっかりやってくれよ。頼むぞ」といわれていた。男の子と男はそんな一言で意気に感じて頑張るものだ。

 

    思わぬこと17 自分では当然と思っていること 基本的に人を信じているが

 基本的に子どものことも人間のことも信じたいと思っている。みんなの地域をきれいにしたり、不正なことは許さないのが普通だと思っている。

 犬の糞の始末をしない人は、地域をきれいにしておかないと20人中5人〜6人はいそうだ。ものすごく汚くしておけば10人くらいは糞をそのままにしていくかもしれない。地域をきれいにしておけば、20人中2人〜3人に減る。注意を入れて、声かけをすれば、20人中19人はルールを守るようになる。

 しかしながら、20人のうちの5パーセントくらいつまり1人はきれいになっていようが、注意呼びかけがあろうが平気な人がいる。残念であるが、これが実際の状況である。ですから、やはり法令を作って罰することも必要となります。

 基本的に人間を信じないわけではないが、自分自身の心の中を含めて、全てを信じられるわけでもない。20人に1人はとんでもないことを平気でやる人もいるものです。

 

    思わぬこと18 自分では当然と思っていること 子どもは純真か

 大人は人生の中で様々なことがあり、心も少し、折れたり、曲がった考えをすることもあることが多い。それに対して子どもは純真だと考える人も多い。でも実際はそんなに甘くはない。犬の糞の始末をしない人がいくら環境整備をしても1人はいる。同様に子どもも50人に一人くらいはそんな人もいる。大人に比べて半分以下だから、大人からみると子どもの方が純真であると思える。しかし、まったく純真なわけでもない。そんな風に考えてやっていないと、オールオアナッセングの考えとなり、子ども養護の立場から逆転することもある。

 子どもは素晴らしい・素晴らしいと言っていた人が、子どもが万引きしたりすると、『この子は特別に悪い子だ。』などと決めつけることも多々ある。信じていただけに裏切られると強烈にその子どもを批判することがある。大人の心と一緒で子どもも純真な面もあれば、醜い面もある。それが人間なのではなかろうか?

もちろん子どもも大人も変容する。この人は良い人悪い人と決めつけることは出来ない。また相性もある。自分と相性の合う人と会わない人がいる。そういうことを加味しながら考えなくてはいけない。けれど、人間、みんなみんな、基本的に性善説的に考えることは大切さだが、それとは別のケースがケースによってあり、対応の仕方を考えることが必要と私は思う。犬の糞ポイ捨てにマナーだけではなく、法的な措置が必要なように。

 

    思わぬこと19 自分では当然と思っていること 嘘を信じ込めることもある

 人間にはいろいろな要素があるようだ。完全に自分が間違っていても、自分は間違っていないと信じ込める能力を持っている場合もある。バドミントンをしていた時である。誰の眼から見てもインのボールであった。しかし、その人はアウトと思い込んでいた。みんなが『インだよ』といっても納得しない。最後に『アウトだったけれど私が我慢しましょう』とのことで終わった。

 こういうことはけっこうあるものです。仲間の人が布の納品に行きました。10万円くらいだったのですが、手持ちがないので後でと言われたそうです。次回に行ってみると、『先回払ったはずだ』とのこと。『いただいたのなら領収書を発行してあるはずですが』『そんなものはいちいちとっておかない』とのこと。結局、埒があかなくなり、お得意さんでもあるので、泣きをみることになったとか。

 完全に自分は間違っていないと信じ込める人もいるので、注意が必要と思いますね。もちろん、みんながそうであるということではないのですが、そういう人もいることもあるとの話です。

 

    思わぬこと20 自分では当然と思っていること 誰でも出来るボランティア

 日本ではボランティアは特別の人が特別の才能を持っていて、やることのように思われていることが多い。ボランティア募集の内容なども、読み聞かせ・そろばん・お花・折り紙・学習お手伝い・バドミントン指導・オセロ・将棋などとやれるものを書く欄があったりする。

 私は基本的に環境整備や地域美化活動がボランティアだと考えている。花の水やり、石拾い、タバコの捨てがら拾い、草取り、ゴミ拾いなどなど、人のため、みんなのためになるのはみんなボランティア活動だと思う。そしてそれが一番大切な基本だと考える。

 このように考えると、じつはボランティア活動は誰にでも出来ることなのである。逆にこうした誰にでも出来ることをしないで、特技に特化するボランティアは日常活動の邪魔になることがある。

 児童館や児童クラブ等が本音部分として、ボランティア活動を受けたくないと思っている一つの所以はそこらへんにあるのではないかと感じています。

 

   思わぬこと21 晴耕雨読?雨耕晴読?

 晴れたら外に出て、畑を耕し、雨には読書と考えられがちである。平島公園で草たちを相手にしていると、反対が良いこともある。というのは晴れている時は、土が固くなっているので、雑草を抜いたり耕したりするのは大変である。少し、小雨が降って、曇りみたいになると、土が柔らかくなって、雑草を抜くチャンスである。また最近は紫外線が強いと身体に良くないらしい。あまりにも晴れている時は日陰で読書がいいかな。

 

   思わぬこと22 草取り

 草取りをいつやるか?私の経験からだと、イネ科の雑草は、冬場に土が凍って時に、根を地中深く下げていく。冬場の凍った後で少し、土が緩んだ時に根こそぎイネ科の雑草を抜いてやるのが、一番効率的である。

 それではなぜ農家は春に雑草取りをして、冬にやらなかったのであろうか?これからあとは私の仮説である。昔、農家は田を耕したりするのに牛や馬を飼っていた。牛や馬の食料のためにあぜ道等のイネ科の雑草も貴重であった。よく飯前仕事で牛のエサ刈りをしていた。イネ科の雑草も大きくなってから、家畜の飼料にするために大切であった。

 ところが、耕運機そしてトラクターと普及して牛や馬を労働力として使うことはなくなった。にも関わらず、雑草の背が高くなるのを待って、刈ったり、除草剤を撒くとの習慣だけが残ってしまったのではなかろうか?

 

   思わぬこと23 冬に草取りそして畦にクローバー

 牛馬の餌としてのイネ科の雑草が要らなくなったのであれば、冬場に根こそぎイネ科の雑草を抜いてしまえば、草取りが楽になるであろう。イネ科の雑草は、株分けして増えるし、背丈も10倍以上になる。冬の小さいうちにやっつけるのが得策ではないかと私は思う。平島公園で12月から2月まで根こそぎ作戦をすこしずつ実施しているが、けっこう効果がある。

 根こそぎ抜くと、グランドカバーをどうするかが問題となる。グランドカバーにはクローバーが良いと思う。クローバーなら背丈が高くならないので、イネの生育を妨げることはない。たぶん土壌もよくなる。たまに刈って土と一緒に漉き込んでやればよい。それに冬の雪にもクローバーは負けない。

 越後平野の冬は、白鳥とクローバーの緑で田んぼがきれいになったりするだろう。そして、たまに朱鷺が飛んでくる平野になるのではないか。そしたら観光資源ですね。そのためにもゴミ捨て禁止の運動もしなければ。

 

   思わぬこと24 ゴミをなくしてきれいな日本

 東京オリンピックに向けて、私はゴミゼロ運動を提唱している。白根まで農道を走っていると、たくさんの空き缶やゴミに出会う。農家の人もずいぶんと苦労をされていることだろう。おもてなしの心などというが、きれいなゴミゼロこそおもてなしの心となるのではないかと思う。

 田んぼの畦が緑になる。白鳥が餌をついばむ。朱鷺がたまに飛来する。コサギが遊んでいる。春になれば除草剤を撒かない分、カエルや虫たちが鳴きだす。安全なコメときれいな環境があれば、美しい国日本になるのではないか。外国から来た人たちもきれいな日本の田園風景を喜んでくれるでしょう。

 

   思わぬこと25 お金だけが全てではない

 生活していくためにはたしかにお金は必要である。でもお金だけが全てではない。暮らせる程度のお金があれば、自分の家だけではなくて、地域全体がきれいで安心して過ごせることが必要だ。自分の家がいくらきれいでも、外出するにはマスクをして防備しないといけないような環境を作っては困りもんである。

 ゴミ屋敷の問題がある。どうもゴミ屋敷の中に住んでいる人はその人はそんなに苦労はしていない。慣れもあるだろうから。でも地球は明らかに回っている。A地点での問題はB地点に地球の移動とともに回ってくる。原発問題でもそうだ。原発設置場所だけが汚染されたわけではない。風の具合いなどで汚染はその場所以外にどんどん移動する。

 自分の住んでいる所だけではなく、とりあえず向こう三軒両隣がきれいになるように働きかけなくてはならないと思う。

 

   思わぬこと26 破壊的衝動

 人間の中にはつまり私の中には破壊的衝動があることを認めざるを得ない。カプラなどを作っていて、上手くいかなかったりすると一気に壊したくなったり、壊したりする。折り紙も一緒できちんと折れないともじゃもじゃにしてしまう。これだけではない。ハエを叩き潰したり、蚊をやっつけたりするとスッキリするし、ゴキブリもやっつけたくなる。

 魚が悪いわけではないが、ヤスでカジカを突いて捕ると、捕まえた快感だけではないものがある。去年、U字溝工事の人がコンクリートを壊していた。『大変でしょうね。』と声かけたら、『けっこうストレス解消になるのですよ』と話してくれた。

 人の中には・・特に男の中には・・破壊的衝動がある。この破壊的衝動の存在をしっかり認めたうえで、対処の方法を考えておくのが良いのではないかと思う。破壊的衝動をむやみに否定してしまうことは危険であると思う。

 戦争映画が良いか悪いかは別にして、昔、コンバットや西部劇をみて面白かったことまでは否定できないであろう。こうした破壊的衝動は子どもの中にもある。あるを前提として考えるか、まったくないと考えるかで、大きな違いが出てくる。まったくないと考える人はある意味では危険である。

 

   思わぬこと27 権力は腐敗する・暴力は麻痺する@

 権力は腐敗する・暴力は麻痺するというのはユングの言葉です。これは私だけではなくて、人間にとっての真実でもあると思います。

 権力を握ると本質的に権力の面白さに酔いしれてしまいます。権力と自分が一緒のものと思ってしまいます。自治会の役員となり、たいした権力ではないのですが、権力を持つと、自分が権力を持っていると誤解して自分と権力が一体となってしまいます。権力が大きくなればなるほどその傾向が強くなる。そして、次第に権力も持つものは腐敗していく。権力自身も腐敗する。

 権力が腐敗を始めると、目的と手段が反対になってしまう。

 自治会活動は住民自身が自治活動をして、みんなで安心安全な地域つくりが目的である。そのために自治会長や役員がいて、また諸行事がある。ところが役員組織や諸行事がいつのまにか目的化してしまって、安心安全な自治的な地域つくりは忘れられてしまう。あの人に役員はやってほしくないが、文句を言っても上手くいかないし、我慢しておこう。行事は負担にしかならないが、動員をかけられるので仕方なく出るしかない。みたいなことが起きてしまう。

 権力を握って人は常に自分とその権力が腐敗する傾向があることを自覚しておくことが必要である。そして会長3人制など、一人権力独占にならないように留意することが必要である。

 

   思わぬこと28 権力は腐敗する・暴力は麻痺するA

 人間の本能の中に破壊的衝動があることは否定できないであろう。破壊的衝動がないと考えてしまうと、暴力にもそれなりの理由があると考える必要がある。したがって、暴力を振るうことにそれなりの意味づけをすることになる。次第にその意味づけに納得してしまい、暴力を振るうことに麻痺してしまうことになる。実力行使とか厳しい言動とかが必要とされることもある。しかしその時に自分の中に破壊的衝動があることを考慮しておくことが必要だ。

 自分を客観視して、見つめなおすことがないと、暴力は次第に麻痺してエスカレートしていくものだ。

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