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手を抜かず、無理をせず(2013年11月8日)

田中 純一

 

   手を抜かず、無理をせず1  矛盾すること

 手を抜かず、無理をしないで子どもの健全育成に関わるにはどうしたらよいかを考えてみたい。これは矛(ほこ)と盾(たて)の関係である。矛は貫きたく、盾はそれを防ぐ。両立しないことから矛盾との言葉は出来た。

 英語で矛盾はInconsistencyである。Consistencyが一貫性との意味であるから否定形で一貫性がないとのことになる。

 手を抜かないことと無理をしないことが矛盾するかもしくは一貫性がないかとのことが問題となるであろう。

 私の結論から言えば、今までの私は出来なかったけれど、これから手を抜かないで無理をしない手法を探してみたいと思っているし、あるのではないかと考えている。

 一つの手法として、少なくとも勤務時間中は全力投球するようにすることである。勤務時間外までいつも仕事のことだけを考えていると疲れてしまう。それに偏った考えになってしまう。年休があるなら、私もあなたもみんなもしっかりと消化できるようにする。お互い様だから、相方が年休で、休みのときはある程度勤務内容を減らす。たとえば、いつも体育館でドッヂボールの試合をしているけれど、職員人数が少ない時は他人とぶつかることの少ない縄跳び程度にするとか、卓球の球のキャッチボールをやる。紙風船で遊ぶ。カプラを体育遊戯室に出して遊ぶなどである。

 児童館・児童センター・放課後児童クラブは絶対にこれをやらねばというものがないから、年休等の消化を考えて計画を立てることが必要であると私は思います。

 年休消化について思うこと。年休はあるのですが、相方のことを考えるとなかなか使うことが出来ないことがあります。年休・出張などの場合に備えて、代替

職員体制を作って私は大切と思っています。

 この場合、臨時もしくは非常勤・パート職員が充てられることがほとんどです。産休代理職員などもそうですね。私は事務局・本部などに優秀な職員を配当しておいて、その職員が代替職員として、サポートに入るのが良いと考えています。正規職員に用があると、本部からいろいろなノウハウを持った職員が派遣され、そのクラブがバージョンアップするという感じです。やろうと思えばやれるのではと考えています。雇用延長になった保育士や教員や児童厚生員も現場の臨時職員になるのが良いと思います。

 

 

  手を抜かず、無理をせず2 物事は一気には片付かない

 私はとても焦り症である。やりたいことがあると一気にやりたくなってしまう。本なども面白いと思うと斜め読みでも一気に読んでしまう。後で読み返してみて、読んだかどうかも忘れていたりして。放課後児童クラブの活動でも児童館でも一気に自分の理想とするクラブにしたいと思ってしまう。でもそこには子どもがいて、それまでの職員がいて、それまでの習慣がある。だから理想的なことを考えても上手くはいかない。一つ一つやるしかない。

 一番やらなくてはならないのは、不当な暴力や暴言を少なくすることではないだろうか?暴力や暴言の裏にはいくつかの原因がある。たとえば学校で成績が悪く認めてられていないので、クラブでは威張りたい。クラブでのきまりが子どもたちにとって適切でないので、子どもがイライラしている。(おやつに30分もかけているなど)家庭環境が原因で荒れている。障害があり、それを周りの人がからかう。暴力暴言の要因となることを取り除くことがまずは必要であろう。

 そのために何をするかは、またいろいろだ。物事は状況環境依存的だからだ。

 やれることを一つ片付け、次に向かうのが良いように思う。人の脳は注意のひらめきと言って、二つのことを同時に対処できないとのことである。しかし同時に物事の原因は多数あるから、一つ一つやるけれどいろいろやってみることが必要なのかもしれない。

 注意の瞬きについて ひらめきではなくて瞬き(またたき)でした。人間の脳はいろいろなことに反応できるのですが、身体は一つしかないので、一つのことに瞬くとのことです。つまり一瞬その方向に脳が集中してしまうというのです。カプラなどをやっていて、崩れる瞬間に無意識的に『あ!』などと声が出たり、他のことが考えられなくなることです。戦争などもある意味では権力者が注意を外国に向けることで内部矛盾を見えないようにすることの意味もあるのかもしれません。
 注意の瞬きとの考え方を頭の隅においておくと良いかもしれませんね。

 

   手を抜かず、無理をせず3 状況環境依存的であること

 案外、物事は状況と環境に強く依存されている。信念とか思想とか主義とか理論とかは必要である。でもあまりに主義主張に振りまわされて主義主張の奴隷になってしまうことがある。(これは出光佐三の言葉です。出光さんは「黄金の奴隷になるな・法律組織の奴隷になるな・権力の奴隷になるな・理論と数の奴隷になるな・主義の奴隷になるな」と言われています)

 現場を見て、状況と環境が実際にどうなっているかをしっかりとみることが必要だと私は思います。物事が状況環境依存的であることをきちんと把握しないと、無駄な会議や無駄な論議に時間が奪われてしまいます。

 11月6日に山形県の新庄市の放課後児童クラブの研修会に出かけてきました。前日に教育事務所の人に『物事は状況環境依存的なので、受講してくる人たちによってやることが変わることが私は多いので許してください』と話をしました。そしたら、教育事務所の人から、翌日、『予定にはなかったのですが、受講する人たちにアンケートをとり、そのアンケートに答える形でやってくれないか』との話がありました。

私は大喜びをして予定を変更して10になるととれる神経衰弱のトランプを先にやりました。みんながそれをやっている間にアンケートを見させていただき、それに答える形で折り紙やカプラなどをやり、グループワークの中にADHD傾向の子どものケースワークを一緒にやるにはどうしたらよいかとの提案が出来ました。というのはみんなと仲良く遊べない・奇声をあげる・ゲームで負けると怒るもしくはすぐに仲間から外れる・暴言をはくなどのことが多くアンケートに書かれていたからです。

 

  手を抜かず、無理をせず4 法律組織の奴隷になるな

 法律や組織は必要です。でもこればかりに固執してしまうと、文書や許可の判子だけが多くなり、何かやるにも時間がかかってしまいます。現場は状況環境依存的だから臨機応変にやらなくてはならないと私は思っています。でも、法律組織があることも確かなので、上手い棲み分けが必要だと主張しています。

 今、問題としているのが法律や組織のことならば出来るだけきちんと体裁を整えよう。でも現場のことならば、体裁など言っていられない。現実的な対処が必要であるとのことである。どちらも必要であり、上手い妥協をしないと無理な状況に陥るのではないかと思うのです。

 会計処理は事務的であり、法律組織に関することなので1円も狂わないようにしよう。でもおやつを食べるときはアレルギーのある子どもには別の物を用意しなければならないし、甘納豆が絶対に嫌いだという人に無理矢理甘納豆を食べさせることもないだろう。現場は環境状況依存的である。しかし報告書には「今日のおやつ 甘納豆」と事務的に記録しておけばよいのである。

 

  手を抜かず、無理をせず5 無駄なことを減らす1

 無駄だと思うことが多くありますが、今までの慣習に囚われてやっていることが多くあります。たとえば、集いなどで出席をとるのはずいぶんと無駄な時間だと思います。講習会の申込数が200人だと、受付に2人は担当者を配当することが必要となります。それに講師のお相手を入れると3人は人員が必要となります。私流に考えると、最後にアンケートをとるのだから、それで出席確認にすればと思います。単位認定のための研修会でもこれで可能です。

 バス旅行等も一緒でいちいち名前を確認しなくても、43人で出かけ、43人で帰ってくればそれでよしでないかと思います。

 こうした考えを通そうとすると議論になって、この議論に時間がかかってしまうこともあります。こういう時は無理をして今までの慣習を廃止するのは損になることもあります。私は忘れたふりをして、名前確認をしないで、『支障がないようだから、今度から名前確認はやめましょうか?』みたいな提案をしています。

 廣川さんより

学校が1日長すぎ、教科書が毎年厚くなります…。

 私の返事

 学校週休二日制で事業時数が少ないのに、教え込まれることのみが増加。子どもも教師もたまったものではありません。週休二日制をやめて土曜日をせめて月に2回はあけることが必要と思います。この時に土曜日は合同授業をやったり、教員も指定休をとれるようにして、代替え職員を配当したらと私は思っています。代替え職員は能力のある人を本部(教育委員会)にキープしておいて、次々といろいろな学校に派遣することが必要と考えます。力のある人は初めてのところでもやれるものです。逆に能力のある人とはいろいろなところでその能力を発揮できる人ともいえるように思います。

  

   手を抜かず、無理をせず6 企画書の書き方

 計画書や企画書を書くのはけっこう時間と手間暇がかかるものである。また立派な計画書を作れば、能力があると思われるからか、計画書に固執する人も多いものである。この傾向は建物を作るときの図面の考え方から来ているのかもとも思う。建物の建設においては図面が大切である。きちんとした図面がないと材料と人手の無駄が大量に発生するからである。

 人間を相手にするときは、物事は状況環境依存的になる。また刻々と変容がある。ちょうど相手のある戦争みたいなものだ。常に状況や環境の変容にあわせていかなくてはいけない。ですから計画や企画は大まかにすることが必要である。

日時・場所・目的・内容・参加人数などが大まかに書いてあればよい。他の企画書や計画書のまねをして、代えるところだけを代えておけばよい程度にしたらと思う。もう少し立派なものにしたかったら、もう少し詳しい企画書の通りに真似をすればよい。そうすれば企画書や計画書に時間を割いて無理をする必要性がなくなる。

 たまには細かくイメージすることも必要だから、そういうことを描くことが一概にやらなくても良いとは思わない。時には必要である。ちょうど教育実習の時の授業計画案のようなものだ。私もいくつも立てた。でも結局上手くいかないことが多い。実習担当の先生に『上手くいかないことを学習することが大切』とアドバイスをもらった。

 

  手を抜かず、無理をせず7 会議について

 けっこう無駄な時間が長いと思うのは会議である。活動時間よりも会議の時間が長かったりすることもある。道のコンクリートが盛り上がって危険なのでと言ったら。『写真を撮って、どんな様子かを説明をつけ、修繕の見積もりをとり、起案書を書け』と言われてことがある。こうすると1万円ですむ修繕工事がいつの間にか3万円になってしまうものである。

 会議は現場でやりたいものである。実際に現場にて論議すれば、無駄な時間が減り、会議の回数も減るものである。

 11月17日に白根児童センターへカプラのワークショップに行きました。カプラ研究会のオセロの五十嵐さんと一緒でした。白根第1・第2ひまわりクラブの子どもたちや保育士さん・親子連れなど50人の予定でしたが、70人くらいいて、9000のカプラが足りないくらいでした。
 行事のための会議も多いものです。でも物事は状況環境依存的ですから、いくら会議をじっくりとやっても上手くいくものではありません。私自身がADHDの傾向があるせいなのか、会議はあまり好きでないですね。今回のワークショップも5分の打ち合わせて、90分やりました。参加者の気持ちが一番大事ですから、その気持ちを大切にすればけっこう上手くいくのではないかと考えています。会議より現場での試行錯誤が一番大切でないかと思います。
 

 

  手を抜かず、無理をせず8 無駄をなくす2

 縦割り行政とか役所仕事とか言いますが、それらを含めてずいぶんと日本は無駄な時間が多いなあと感じています。

 自治会総会などで会計報告などがあります。参加者が望んでいるわけではないのに、収入から始まって支出まで縷々とした説明がなされることが多いものです。書類などは事前配布して、必要な人がチェックしておけばよいと思うだけなのですがね。事業報告・予算・事業計画なども一緒で同じようなことが同じようにセレモニーとしてだけ続けられることも多いものです。もちろん形式的なセレモニーの全てが無意味と私は思っていません。でも無駄な面も多いのではないかと思います。

 提案としては60分の総会なら、説明は20分以内とし、20分の質疑応答、20分の予備時間にしたらと思います。20分以内できちんと説明するのはけっこう大変ですが、受ける側も中身が濃くなるのでぼさっとしている時間が短くなります。人間の集中時間は長くて45分のようです。それも中身が15分くらいで話題を変えないとだめだと私は感じています。

15分・15分・15分で1テーマ・ちょっと一休みしてまた153回の回転で120分がこなせるように思います。新潟県庁のように180分の研修なら153回のパターンを3回かな。

 

  手を抜かず、無理をせず9 子どもの活動では無駄が大切

 出来るだけ無駄をなくすことに私は賛成です。しかし、子どもの学びのプロセスはずいぶんと無駄が多いものです。この試行錯誤を大人は無駄と思ってしまいます。こうやればよいのにとついついアドバイスをして、子どものやる気を削いでしまいます。実習中の実習生の授業計画案に、失敗がある程度見えているけれどやってみさせることが必要と思います。人間は失敗から学ぶ存在ですから。重篤な事故にならない限りやらせてみましょう。逆に指導者が失敗すると思っていても思わぬ成功もあるのでこれがまた面白いものです。

 子どもに一見大人には無駄だと思われる活動をさせてあげないと、子どもの発達はないのです。そして、指導者やワーカーが参加者の無駄だと思われる活動を大切にすることが、よりよい活動と深みのある活動にさせていくものだと私は感じています。

 無駄ということを考えてみますと、一見無駄に思えることも子どもには大切です。同時に大人にも大切ですね。大人も無駄なことをいっぱいやって学んでいくのかもしれません。
 そこで考えてみると、自分からやる無駄なことは無駄ではないけれど、人にやらせられる嫌なことがもしかして無駄なのかもしれません。いくらためになることとは言っても、嫌なことを無理矢理やらせられたら、益がなくなるのではないかと思います。
 会議や起案文書などが無駄だと思うのは、やる内容とは関係なく、形式的に無理矢理やらなければならない的な考えがあるからかもしれません。
 カプラなどをやっていて、作って最終的には壊すのに楽しいのは、自らがやっていて、しかもその中にクリエイティブなものがあるからのように思います。

 

  手を抜かず、無理をせず10 失敗から学ぶ

 個人にとっても無駄が大切と思います。無駄な活動をすることで失敗をしますが、その失敗から学びがある。

 山菜採りなどで、私はいつもの山菜があるところに行くだけではなくて、違った場所を探しに行きたくなる。これは私自身ADHD傾向があるためであると思う。しかしその失敗からこっちはない・あっちはあるかもしれないなどとの学習がある。そのことで学習することは多大である。

 失敗に学ぶと考えると、やった行動に意味があるから、楽な気持ちになれると思う。

 

   最後に 手を抜かず、無理をせずに

 手を抜かず、無理せずにということを考えてみた。1それは矛盾していることであるとの自覚・2物事は一気に解決しない・3問題は状況環境依存的であること・4法律組織の奴隷になるな・5無駄を減らす簡略化することも大切・6は企画書の書き方・7は会議について・8は無駄なこと必要なことを提案する・9は子どもの活動に無駄は大切・10は失敗から学ぶとしてみました。

 自分自身の反省のための記録だと思っています。


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