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      中学生刺殺事件について(2015年3月6日)
                          児童健全育成指導士 田中 純一

 

 平成27年2月20日に殺害された中学生刺殺事件について、様々な意見が飛び交っている。基本的な私の考えを述べたいと思う。

 

 中学生を巡る環境悪化の状況になぜ大人が気づかなかったのか。また、子どもが大人になぜ状況を発信できなかったかなどが問題となっている。スクールカウンセラーや相談体制を作ることの必要性が言われ始めている。また、もっと子どもに寄り添う人がいるべきだとの受容共感派的な立場の主張も多くなっている。大人がもっと子どもに寄り添わなければ子どもも大人を信頼しないのではないかとの一見、正しそうな見解にも見える。

 

 この問題に私自身の考えを明らかにしておきたいと私は思う。

 相談体制を整備しても、なかなか子どもたちは相談には来ないであろうと、今までの経験から感じる。同時に大人が子どもに寄り添うみたいなことをしても、高学年や中学生には見透かされるのではないかと私は思う。

 

 第1の視点は環境整備を心がけることである。

大人は子どもではないのだから、大人としてしっかりと、自分の立ち位置を明らかにすることが必要ではないかと思う。子どもと大人の立ち位置で共通するのは、同じ地域の環境で同じ空気を吸って生きていることである。同じ地域の環境を整備してきれいにする活動をやれば、子どもたちは大人の存在にも気がつくものだと私は思う。

 割れ窓理論(自家用車等のガラスが割れていると、どんどん壊され、そうした環境では軽犯罪から重大な犯罪が多くなるとの理論)で明らかにされたように、犯罪が起きる環境があることに問題があるともいえる。環境整備を地域の大人が積極的にやれば、死角が少なくなり、犯罪が少なくなると考えられる。

 公園や街に花を植えたりしていると、当然のこととして中学生・高校生も含めて、子どもの状況が下側から見えてくる。今回の事件は夜中であったようだが、夜中だけしか行動しないわけではない。日中でもいろいろな問題行動を起こしていたであろう。こうした問題行動などを環境整備しながら、チェックしていく方法も一つの重要な方法ではないだろか。

 防犯活動や青少年パトロールなども腕章をつけてそれとわかるようにすれば、問題行動を起こす子どもは避けて見えないようにするであろう。防犯委員や青少年パトロール委員はゴミ袋を持ちながら、犬の糞や空き缶、タバコの吸い殻などを集めながらパトロールすれば、一石二鳥であると私は考える。

 

 第2の視点は日常と非日常の区別をつけることにあるのではないかと思う。

日常とは非日常とは平時と戦時、平時と危機管理時ともいえるであろう。今回のような事件は日常的なトラブルが異常事態までに発展していったものであるとも考えられる。危機時とか異常事態時にどのような対応をするべきかを日ごろから考えておくことが必要である。

 2001年に池田小学校事件が発生した。この事件を受けて、私は職場で暴漢者が侵入したことを仮定しての対処訓練を実施した。高学年の子どもに『すぐに他の先生に連絡』と言ったら、エヘラエヘラしていた。きつく叱ったのだが、危機時にはきちんと協力して、みんなで対処することが必要である。そこできちんとする訓練をしておかなければ、実際の時に対処ができないからである。予想もしない事態の展開にどのように対処するかを訓練しておくことが必要である。今回の事件で言えば、いざこざからエスカレートしてしまった時の対処の仕方(たとえば警察に通報する、必死に逃げる、正当防衛権を行使する、犯罪に巻き込まれない対処の仕方などなど)をきちんと学習する経験を積んでおくことが必要であると私は思う。

 

 第3の視点は犯罪とは何かを知っておくことである。

犯罪の三要素は@暴力的関係で、加害者の方が強いことA死角があるために窃盗や万引きが行われることB無知に付け込んで詐欺等をやることである。

 中学生刺殺事件を考えてみると、暴力的な関係で相手は3人でカッターナイフを持ち、体力も上だから明らかに被害者が弱い。深夜には人の目がないし、川の近くは死角となっている。呼び出しの段階で主犯者格の18歳少年は含まれていないと思わされていた点で騙されている。犯罪の三要素が見事に出ている。犯罪にあわないために、基本的な犯罪の三要素を教えておくことも必要である。

 

 第4の視点は中学卒業から18歳までの3年間が社会的に空白となることが制度上の問題ではないかと考える。

中学までは義務教育なので何らかの措置をされる。しかし、高校は義務教育ではないので、学校制度にうまく適応できない子どもは退学処分となる。退学処分になったあとのケアが少ない。不良グループや犯罪グループに取り込まれる可能性がとても高い。そこで制度的に職業訓練制度、中学卒業後の働き先などの確保を考える必要性がある。ブラブラしていることは、犯罪をするか巻き込まれるかの可能性が高い。18歳から選挙権が持てて、大人扱いにすると共に、15歳・16歳・17歳の扱いの制度的な保証が必要な時代が来ていると私は考える。

 

 第5の視点は働くことを通してのアイデンティティーを持てるようにすることである。

 小学生時代から働く経験や勤労体験を上手くとり入れておく。人のためになることが、自分のためにもなるとの利他主義と利己主義が一致する経験をたくさん積んでおくことが必要であると私は思う。地域・町内・学校・公民館・児童館・保育園・放課後児童クラブなどでたんに遊ばせるだけではなく、自分の利用するところを自分たちできれいにする活動を取り入れる。また、中学卒業し、高校にうまく適応できない子どものために、就労のための活動を実施する。このことで、働く楽しさを感じ取る心を育てることが必要であると思う。

 お年寄りも自分の存在が社会のためになっていることは、生きる喜びへとつながる。もちろん乳幼児も小学生も同じである。中学から成人するまでの微妙な期間に働く喜びを感じ、生きるアイデンティティーを獲得する機会をいろいろな分野で創設していくことが必要であると私は思う。

 私の扱ったケースである。中学生で学校や仲間に適応できないで、ナイフを隠し持って登校していた。途中で登校も出来なくなった。公園の草取りや山菜採りなど勤労体験や自然とのふれあいは大きな効果があった。

 

 第6の視点は発散する場所の確保である。

 物事はきれいごとではない。必要以上の圧迫があれば、心も痛む。そうした圧迫に対して、発散することの出来るものがあったり、場所があったりすることが必要である。高齢者向けのスポーツ教室やカラオケ・談話室などがたくさんある。しかし中学を卒業して、高校中退してしまった子どもたちの発散の場所はほとんどない。結果的に不法行為を伴う犯罪などに巻き込まれてしまう。軍隊に入れるというわけにはいかない。そんな風に考えるとなんらかの若者のエネルギーを発散できるものを作っていく必要がある。

 いたずら書きをアートに、騒音を音楽に、暴力を祭りに、などなどいろいろな手法を開発して、若者が発散できるものを作る必要性があると私は思う。

 

 いくつかの視点を私は主張した。それは国や県や市町村などの行政や政治に要望したいものである。けれど、地道に下から出来ることをやっていくことではないかと思う。自治会活動・平島公園緑化活動・カプラや折り紙、どうぶつしょうぎ、オニム、バックギャモンなどの活動・児童館連絡協議会や地域組織活動での提案・公園愛護連絡協議会での活動・専門学校での授業などを通して、地道にやっていきたいと思う。

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