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和語について(2013・12・13)

児童健全育成指導士 田中純一

   大和言葉和語について(以下和語に統一) 始めに

 日本人は漢字が伝わる以前に使っていた言葉がある。日本人はそれを上手く漢字にも当てはめて使ったようだ。その結果、本来的な和語と当てはめられた漢字の意味との微妙な違いが物事の感じ方を変えてしまうこともあるようだ。日常的に使っている言葉を和語なのかあるいは漢字そのままなのかなどを考えて、和語の元の意味を探ってみたい。そのことで、日本人の発想方法を考えてみたい。

 大和言葉にするか和語にするかについては一般的な和語にしたいと思う。厳密には大陸文化が伝来する前からの言葉が大和言葉で、和語とは漢語外来語とともに語彙の種別を表す側面が強いとのことである。

 また和語があっても、適切な漢字がない場合に日本人が作った言葉が国字である。躾や働くなどが国字に代表であると私は感じています。

 国字なのに労働とか搾取は音読みもあります。これも日本人が適切な音読みを作ったのだそうです。本来の漢字がないので国字として新しい漢字を作り、それに中国風の音読みも作るのはすごいですね。それも誰が作ったなどと日本では言わないのが好きです。

 

    和語について1 まなぶ

 学ぶの学は建物の中に子どもがいるから、学ぶ場所との意味から漢字を当てたようだ。学のもとの字は「學」と書きます。學とは、屋根のある建物の中で手取り足取り教わり、五感をフルに使ってマネをすることだったそうです。學にはまねるの意味もあったとインターネットの検索で出てきました。しかし、日本のまなぶはそもそも屋根のある建物みたいな意味がなく、そもそもがまねるとかまねぶが語源となっています。つまり、学校でなくても日本人はどこでもまなぶことが出来ると考えていたと言えるでしょう。

 和語のまなぶにはこのように学校だけではなくて、いろいろな場所で見てまねるとの意味があります。どこにでもまなびのチャンスと場所が転がっているとも言えるでしょう。また日本人の中には「守・破・離」との考え方があります。基本を繰り返し真似をしてそれを守り、次の段階でそれを突破して。新たなものを作っていくとの考えです。

 最近の日本の学びは基本的なことを繰り返すことをおろそかにしているように思います。きちんとまねることの大切さを提供していきたいなあと思います。

  私は創造性の原点は我慢と諦めがある程度ないとだめではないかと自分にも子どもたちにも話していました。新しいものを作るには、何回も何回も作ってみることが必要です。かなりの量をこなさないと新しく創造的なものを作ることは出来ないものです。

 びっくり倒立折紙を作ってみるとすごく簡単で誰でも出来るのですが、これを思いつくまでに、1000以上のチャレンジを私はしました。そのプロセスは繰り返しと失敗の連続です。我慢と諦めの心が必要となるのです。なおこのあきらめはネガティブなものではなくて、量をこなさないと上手くはいかないし、量をこなしても上手くいくとは限らないとの諦観みたいなものです。諦観はポジティブな考え方であると私は思います。

http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/origami/bikkuritouritu.html

諦観とは

1 本質をはっきりと見きわめること。諦視。「世の推移を―する」

2 あきらめ、悟って超然とすること。「―の境地」

 

   和語について2 はなす

『はなす』は和語の語源としては放つや離すから来ていると思われる。自分の考えを相手に放つことなのかもしれない。ということは当然、それを受け止める相手がいるし、一回自分からはなたれたものは独り歩きする可能性を多分に秘めている。独り歩きして、まったく反対に受け止められてしまうこともある。

 これに対して漢字の『話』は『小さな刀で、神への祈りの文である祝詞を入れる器(サイ)を突き刺して、その祈りの効果を失わせることを話といったそうです。そのように他人に害になるようにいうことを話といったそうです。』との記述があった。ずいぶんと和語とは違って意味もありそうだ。

 和語の『はなし』と漢字の『話』は違いがあるので、噺・咄などの国字もあるようだ。

 和語のはなすの中には、話・噺・咄・放つなどのいろいろな要素が詰まっているから、それを理解しないで、一律に話と考えてしまうと誤解することがあるようだ。女の方々のガールズトークは咄す、噺すなどが多いと思う。はなしをして何かを解決するよりは、いいたいことを言って、フラストレーションを解消する意義が高いように思う。カウンセリングにおける傾聴とのことも、相手のはなしを間違いとか正しいとか判断するのではなく、はなすことで、自己を見つめなおすチャンスを作るためにあるのではないかと思う。

 子どもが日常の中で、友達とトラぶり、『〇〇ちゃんが私のことを馬鹿と言った。』などと言いつけに来ます。私は『○○のこと後でつよーく叱っておくよ』と言ってあげると『先生に言いつけたからね。』『また遊ぼ』などとそれだけで解決する場合もあるのです。つまる思いをはなつことで不満が昇華することも良くあるというものです。

 

    和語について3  きく

 漢字としての『聞』は+門。門は「問う」の意味です。耳と両開きの扉の象形から「たずねてきく」を意味する「聞」という漢字が成り立ちました。と漢字の成り立ち辞典に出ていました。

 和語のきくは聞く・効く・訊く・利くなどのいろいろな要素を持っています。同じきくと言ってもあいまいでしかも多重の意味を持っています。多重の意味を持つことは細分化して科学的に考えるとの意味ではマイナスです。でもプラスの面もあります。『あなたの意見をきいていて良かった。』との場合、たんに聞いたいただけではなくて、話を聴いたり、訊いたりしたので効いたとの意味もあるようです。ちょうど、漢方薬のせんじ薬が身体にいいように、ピュアであれば効くというものでも世の中はなさそうです。

人の話をちゃんときくのは難しいものですね。同時に相手に伝わるように話すのも難しい。出来るだけ短くさっと伝わるようにしたいと思っています。そして活動時間が出来るだけ長くなるようにと思います。
 話はかわりますが、カプラのワークショップをしていると、60分は幼児にとってもあっと言う間です。子ども自身がみずから動いて楽しいからでしょう。
 先日の巻保育園では、60分やってくれとのことだったのですが、その後、年長組さんと職員を相手に40分追加となりました。いやいややるときは時間がなかなか進まないのに、楽しいことは速いものですね。
 逆転の発想をすれば、嫌なことも楽しいことを見つけて時間を有意義に使うようにしていくことが大切とわかり始めました。同時に楽しいことは『こんなに楽しく過ごせることは当たり前ではなくて、有難いことだ』と思いながら、大切な時間を過ごすことが良いと最近思い始めました。

 

   和語について4  はるなつあきふゆ

 しゅんかしゅうとうと言ってしまえばそれだけになります。でもはるは田畑に水を張る。

田畑を墾る・天候が晴るみたいな意味があります。同様になつには暑い・熱いが転じた意味もあるとか。あきは明らか・飽きるほど食べるみたいな意味もあります。ふゆは「冷(ひゆ)」が転じて「ふゆ」となった。寒さが威力を「振う(ふるう)」または「振ゆ(ふゆ)」が転じて「ふゆ」になった。寒さに「震う(ふるう)」が転じて「ふゆ」になった。「殖ゆ(ふゆ)」が転じて「ふゆ」になった。などがあるそうです。春・夏・秋・冬と漢字一言で言い表すよりも和語の方が意味深い感じですね。

 

 

 

  和語について5 とる

 とるも和語だとあいまいです。その分漢字がたくさんあります。文章の時は使い分けることが多いですが、日常では、多彩であると考えることが出来ます。

 採るは山菜採りにつかいますね。

 取るはそこにあるものを取ってと言う感じ。

 獲るは動物などをつかまえる。ですから捕るにもなりますね。

 撮るは写真などを撮るです。

 執るは実務などを執るになるのでしょう。

 摂るは栄養を摂取することかな。

 録るは記録すること。

 盗るは盗むことになります。

 私の育った下田村では他人の作った作物などを欲しい時には『そこのキウリ盗らせて』と言っていました。すると『いくらでも盗っていって』と言われたり、『それは種をとるから、隣のキウリにして』などと言われました。あえて盗むを使うことで相手が気兼ねなく断れるようにとの配慮からでした。

 

   和語について6 とぶ

 下田村では急いで走って来いというのは『はよ、飛んで来い』と言います。高校の時に『飛んで来い』と言ったら、『羽がないから飛べません』と言われてしまいました。

 とぶもいろいろありますね。飛ぶ・跳ぶ・翔ぶなどです。

 羽があってとぶのが飛ぶ。

 筋力でジャンプするのが跳ぶ。

 心がとぶのが翔ぶですかね。

 

   和語について7 かなしい

 かなしい心もいろいろな要素があります。

 悲しくてつらいこともあります。

 相手の気持ちを考えると哀しいこともあります。

 恋人のことを考えるだけで愛しい気持ちになります。

 かなしいだけではどんなかなしいかもわからないし、同時にいろいろな気持ちが一緒になっているのだから、簡単に漢字に出来ないこともありますね。

 

    和語について8  みる

 子どものことをきちんとみましょうなどとの提案がされることが多々あります。でもこのみるもいろいろとあるようです。きちんとみましょうと話しても受け取り方はいろいろとなります。

 見るでは英語で言えばseeですから、網膜に映っていることが基本となるのかもしれません。

 視るはもう少し眼をこらしているのかな。英語ならLookでしょう。

 診るは医師の診察に使われます。

 看るは看護師(私は看護婦がいいなあ)の人が看てくれています。

 視るに近い監視みたいのもあります。監るみたいな当て字もあるようです。覗くようにみるのは覗るというようです。

 観るは難しいものです。表面的なことだけではなくて、少し心の中までのことが関係してきます。しかも自分を第3者として客観的に観るのと、相手の関係性を作り上げながら観るのでは大きな違いが生じてきます。科学の知で観るのか臨床の知で観るのかで大きな違いが出てきます。

 子どもたちを観るためには、客観的に観ることも必要ですが、子どもと自分との関係性を抜きにして本当のことを観ることは出来ないとも考えられます。

 みるとは難しいことだと思います。自分が漢字で当てはめたらどんな漢字でみているのかを感じる感性が必要なのかもしれません。

 

      和語について9 とける

 教員に成りたての時のことです。私は新潟県立新潟養護学校に勤務していました。小学校6年生の理科を理科専門の小学部長さんとティームティーチングをしていました。私が授業をして、小学部長さんがサポートしてくれていました。授業終了後に授業のやり方の指導も受けていました。

 お湯と水では砂糖のとける量の違いについての学習がありました。

 授業終了後の指導で『あなたは漢字のどのとけるを使っていたのか?』と訊かれました。考えていませんでした。とけるには溶ける・融ける・解ける・説ける・熔けるなどいろいろなとけるがあります。時と場合で科学的には使い分ける必要があるとのことでした。

 科学的にはそうなのでしょうが、わだかまりがとけるみたいな場合はいろいろな意味のとけるが複合しているように思います。

 

      和語について10 わかる

 わかるも難しいですね。『わかった。わかった。』と生返事をして、『何がわかったの?』と訊かれることもよくあるものです。

 分かるは事情が分かる・消息が分かる・話が分かるなどに使われるとのことです。

 解るは理解が出来たとの時で、ドイツ語が解る・意味が解るなどですが、常用外漢字とのことです。

 判るは善悪が判る・違いが判るといったような使い方だそうです。

 それにしても物事や人がわかるとは難しいことです。英語でunder standです。基本は下側に立つとの意味です。相手のことを理解したかったら、わかりたかったら、上目線や同じ目線ではなくて、下側からしっかりとみてみることが大事だと思います。下側に立って理解するということはある意味で客観的な観察だけではなくて、その人の気持ちまで下りることが必要ですから、主観的な要素も含めて観ることが必要と感じます。

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