反受容共感論(2013年9月1日)

児童健全育成指導士 田中 純一

 T 始めに反哲学論と反受容共感論
    1 反哲学論
    2 反哲学論のアナロジーとしての反受容共感論
    3 脳の働きと自動的な行動
    4 問題行動のとらえ方
 U 受容共感論の問題点
    1 精神的なことばかりで問題行動をとるわけではない
    2 日本の保護者の問題点は過保護過干渉
    3 問題行動は環境状況依存的である
    4 宗教観の違いがある
    5 受容共感派は他人に自説を強いる
 V 反受容共感論の私の立場
    1 反受容共感論の立場と手法
    2 小太郎君他の犬に学ぶ
    3 守破離とミメーシス

   T 始めに 反哲学論と反受容共感論

    1 反哲学論 科学の知は観念論に裏付けされている
 哲学者木田元さんが『反哲学論』との著書で、哲学は精神と物を分離する考えなので、基本的に観念論を基本としていると喝破されている。喝破とは『誤った説を排し、真実を説き明かすこと。物事の本質を明言すること。』との意味である。木田元さんは客観的と言われている科学の知が実は一番観念的に哲学もしくは宗教に支配されていると見破ったのである。科学の知を使えば、何事も上手くいくとは限らないことを明らかにしてくれたように思う。
  近代科学の発展は、自然と人間を分離した科学の知=客観性・論理性・普遍性をその基盤においている。客観性・論理性・普遍性は、真実との誤解があるのではないかと私は思う。客観性・論理性・普遍性のおおもとには、一神教の神か、絶対理性か、自然からは分離された精神が別のものとして存在することが必要となる。したがって客観性・論理性・普遍性の基盤に観念論が存在することになる。したがって、科学の知を言い張る人たちは、その裏に強固な観念の世界を持っている。この観念の世界は本来の大きな意味での自然と関係性がないので、一つの仮説世界の中で成り立っていると考えられるであろう。ですから最初の仮説をどのように立てるかで、物事の考え方はまったく違ったものになる。


  ◇科学の知は観念論を基盤としている

    2 反哲学論のアナロジーとしての反受容共感論

私は『反哲学論』をアナロジー(真似をして)させて『反受容共感論』を考えてみたいと思う。というのは教育や子育ての部門において、受容と共感ということが科学の知と同様に絶対的なものだと主張され始めており、それが悪影響を与え始めているからである。

受容と共感の基礎は、ある個人がある行動をするのには、観念的にもその理由があり、その理由をまずは受け入れて、共感してあげれば、上手くいくとの考えである。これには人間がきちんと思考して(考えて)行動する動物であるとの前提が存在する。行動が不適切であるのは(問題行動であるのは)認知過程の間違いか思考方法の間違いが存在するというのである。そこで問題行動や不適切行動である所以を縷々と説明説得することが必要となるのである

     3 脳の働きと自動的な行動

この基本的な考えが間違っているのである。たしかに人間は思考することによって発達してきた。ある行動が良いことか悪いことか、ある言動が適切か不適切かは思考することによることの場合もある。それ以上に人である前の動物としての本能で自動的に反応して行動することの方が多いのである。たとえば、目の前で大きな声を出されたら、びっくりするだろう。びっくりするとの反応は生命保存のためオートマチック≒自動的≒生理的反応であり、思考は後からやってくるのである。


上記の脳の図のように、一定の外部刺激があった時に、脳の根幹部分に伝わり、それが自動的に筋肉の硬直とか、声をあげてしまうとか、思わず笑みがこぼれるとかの身体的な反応となる。この反応が前頭葉の感情に伝わり、過去の経験から、喜びや怒りやおかしさ等へと発展する。それをもとに意思、計画、意欲へとつながるのである。


     4 問題行動のとらえ方

この見地から考えられることは、一つの不適切行動や問題行動を下手に受容共感してあげることは無意味であることが多いとのことである。なぜならば、不適切行動や問題行動が意識されて行われたものであるとは限らないからです。砂遊びをしていて、隣の子どもが押したから、身体が反応して押し返すことは自動的なことの方が多い。この場合に『押す』との行為が不適切な行動であったとしたら、『押す必要がないのに押した手は悪い』と言って、手に強く教えてあげる(=手を強く痛いほど握る)。そして『手は悪かったけれど、わかったあなたは良い子』と抱きしめてあげればよいのです。次回に押されたときに、脳は痛かったことも自動的に思い出し、押されても押し返さないように学んでいくでしょう。でも相撲の場合は押されたら、押し返すことが大切です。何回かの練習の中で下から押し返すことを学ぶことになります。

このような事例から考えられるように、多くの場面において脳は自動的に反応しており、別に考えて動いているわけではない。ですから、脳の自動的な反応を社会的に適切であり、問題のない行動になるように統御することが学習ということになると私は考えます。

欧米の場合は観念論の基本にキリスト教があるように思います。キリスト教には教会で懺悔することがあるようです。月曜日から土曜日まで生活し、その生活を週の始めの日曜日に神の前で反省して、新しい週を過ごす発想であると思います。これは私の勝手な解釈です。このような思考パターンの方々には、受容して共感して自分を見つめなおすことは意義があることかもしれません。

たとえば、魚や動物(家畜や野生動物を含む)を殺して食べる場合で考えてみます。日本人は無駄な殺生をしないことを前提に、その都度感謝の気持ちで『いただきます』と言っています。欧米とはちょっと違うのではないでしょうか?自然と人間が共生していると考える日本人にとって、その度ごとが勝負であるでしょう。欧米のように週に一回懺悔するのとは考え方が違うのではないでしょうか?

どうも私には観念論を前提として(≒精神が物質を優先するとの考えを前提として)懺悔とか反省があるように思います。私は日本人には、日々の物や人との関わりの中でやっていいことと悪いことを学ぶことの方が大切と考えます。

図式すれば以下のようになります。

西欧的な考え

問題行動→問題行動をする精神→精神の見直し→そのための懺悔や受容共感

日本的な考え

問題行動→問題行動をする環境・状況→都度の環境や状況の改善→自尊心向上

 との関係性になるのではないかと思います。

 日本人には問題行動をする環境や状況の主体的客体的な関係性を改善して子どもの自尊心を高めるようにすることが大切であると思います。
 観念論を訳してみると(2013年9月5日加筆)Idealismと出てきました。これを再翻訳すると理想主義となります。日本人は観念論というと現実を弁えない(わきまえない)思い込みみたいなものととらえます。しかし、英語圏ではむしろ理想主義になるようです。つまり、思考そのものを一歩上の地点ととらえているようです。日本には下手な考え休むに似たりの考え方のように、普段の繰り返しの努力が何かを生み出し、創造的なものを作っていくと考えています。英語圏は思考が何かを作ると考えているようです。日本の考えの方が一歩上ではないかと私には思えます。


    U 受容共感論の問題点
   1 精神的なことばかりで問題行動をとるわけではない

 受容共感の場合、基本が観念的な精神論に立っています。なぜ問題行動をしてしまうかその精神を見つめることが大切となります。ところが問題行動はそもそも精神が統御しているわけではないので、問題が複雑となるのです。問題行動をする。なぜ問題行動をするかを考える。他人が悪いからだ。もしくは自分に精神的な問題があるとのパターンとなります。ですからADHDなどで受容共感派に指導された子どもは、自尊心欠如の方向になるか、あるいは他人攻撃型になることが多くなります。

 そもそもADHDAttention Deficit / Hyperactivity Disorder=アテンション・デフェシィテ・ハイパーアクティビティ・デスオーダ≒注意・過剰・多動的・症候群なのに、DeficitDefctに誤訳されて注意欠陥多動性症候群となったようです。問題行動をする環境や状況を改善すると考えれば注意欠陥なら注意喚起が必要となります。しかし注意過剰(=注意超過)であるならば、そんなに過敏になる必要のないことを伝えることが必要となります。たとえば、授業中に、消防自動車の音がすると、ADHD傾向の子どもはすぐ、音に耳を集中させ、あるいは立ち上がったりします。私は携帯電話には消防署の火事案内が登録してありますので、すぐに電話をかけます。『ただいま、新潟市西区平島地内でボヤがあり、消防車が出動しました。鎮火しました。』のようなことが知らされます。それを聞かせて『君の家は大丈夫だよ』と教えます。注意過敏な子どもや注意過剰な子どもへの対応はこのようにすることが良いのではないでしょうか?

 ちょっと友達に『お前は4年生なのに足し算もわからないのか』なんて言われると激しく怒ったり、暴力をふるうことがあります。この場合はそのような言動をする子どもをきちんと叱り、二度と同様な言動をさせないことが必要です。同時に『手を出す前に、先生の所へ言いに来てね。あなたは良い子なのだから』と伝えることも必要でしょう。

 そのような行動(≒問題行動)をなぜしたかではなくて、そのような行動をした環境や状況を改善することが必要なのです。環境改善をしないで、問題行動をする子どもを受容し共感して治してあげようと思うのはある意味では傲慢で犯罪的ではないかと私は感じています。

   
   
 日本の保護者の問題点の多くは過保護過干渉

 日本において、受容共感をやる人には一見優しそうな人が多い。提唱者であるロジャースは、指示命令的なカウンセリングに対して、クランケの主体性を重視した手法を提案した。しかし、ロジャースの考えは安易な受容共感ではない。けれど日本の受容共感派の多くは受容し共感してあげれば、クランケはよくなるみたいな安易さがあるように思う。結果、上手くいかないと親子関係の親密さみたいな方向に流れている。結果的に親に多大なプレッシャーを与えることになる。

 日本人は子どもの生命を一番と考えており、二番が母親自身、三番目に父親みたいな感じです。ですから愛情不足で子どもが問題行動を起こしていることはあまりないのです。ほとんどが過干渉か過保護のケースが多いのです。環境状況改善的に考えれば、過干渉と過保護な面の修正を図ることが必要となるのです。多くの問題行動は過保護過干渉を軽減すれよくなることが多いと思います。とくに少子時代で無意識に過保護過干渉になっていることが多いものです。この点を見過ごして、親の愛情不足みたいなことを言われて困っている人が多いのが現状です。

      3 問題行動は環境状況依存的である。

 私は問題行動も良い行動もかなり状況環境依存的であると感じています。ですから地域や街や公園を安全安心な場所を作ることが大切と考えています。受容共感派は、精神論ですから、身近な環境や状況の改善を軽視しているように思います。

 毎日草取りをして、公園をきれいにしていると、ゴミをポイ捨てしていくことを許せなくなります。そこでしっかり叱って、理解してもらったら、『君は良い子だ。どこの小学校。後で校長先生に良い子がいたと連絡しておくね。』などと話しています。

 環境状況を自ら改善しようとしないで、受容共感して子どもを良くしようなんて、私には傲慢そのものではないかと思います。これは私の主観ですが、欧米における学者はゴミ拾いや清掃をそんなにしないのではないでしょうか?身分の低い人の仕事で、自分は能力があるから、高い精神的な仕事をしていると考えているように思います。トイレ清掃からやり直すのが日本人の基本と私は思っています。

 私は反受容共感論の立場をとりたいと思います。これは受容共感をしないとのことではなくて、受容共感のみに手法を限定することが間違いだとの立場です。そして状況や環境を変えていくことが必要であると思います。状況環境的な考えから言えば、いろいろな子どもがいるわけで、いろいろな状況環境があるので、多重知能理論等を活用して、その子の持っているいい面を伸ばすとの立場が良いと考えています。

            4 宗教感の違いがある

 寺田さんからのメッセージがきました。「私は子どもの頃 なにをやったかは忘れましたが『なんでそういうことをした?』と学校で注意されて、まじめに考えたのですが、理由が思い浮かばず『体がそう考えたから』と返事してしまい、さらにさらに叱られたことを覚えています。ふざけたわけでも反抗したわけでもないのに・・なんで?ってきかれても困ることってあるんだなぁと今も考えます。」というものです。考えて行動したのではなく、無意識で身体が動くこともあるのです。受容共感派の方々は人間を考えて行動する動物と思っているようです。当然、自分も一歩他の人より、思考する人間だから、偉いと思っています。大人はこのことに騙されるのですが、子どもは直感で嘘を見抜ける力があります。いくら猫撫で声で受容共感しているふりをしても、わかってしまうのです。

 仏教では、ご本尊がいて、その前に亡くなられた仏様がいて、お坊さんがいて、みんなで拝みます。ご本尊・亡くなられて方(=ご遺体)・お坊さん・庶民の順序となります。カトリックの方の葬式に出かけたことがあります。カトリックの方の葬式では、イエスキリストの像・牧師・ご遺体・庶民の順となります。つまり、救われないご遺体をキリストのもとに案内する牧師は、ご遺体よりも上にあります。受容共感派の考えは、これと同じ考えではないかと思うのです。悩む人を救ってあげるために話を聞いてあげるとの感じです。

なお、カールロジャースはプロテスタントの神父を目指していたのですが、その後、臨床心理学を究めていった人です。私もその考え方は好きです。

ロジャーズのカウンセリング論の特徴は人間に対する楽観的な見方にあり、それはフロイト見られるような原罪的な悲観論とは対照をなすものである。彼によれば、人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。カウンセリングの使命は、この成長と可能性の実現を促す環境をつくることにある。自分自身を受容したとき、人間には変化と成長が起こる。カウンセラーは、クライエントを無条件に受容し、尊重することによってクライエントが自分自身を受容し、尊重することを促すのである。(ウィキペディアより)

ロジャースの考え方はとても好きなのですが、日本の受容共感派とは違うのではないかと思うのです。そもそも日本人は原罪的な悲観論を持っていません。また、ロジャーズのいうように、有機体として自己実現をする力が、自然に備わっていると考えています。原罪論が強いアメリカとは違って、有機体として自己実現する力が備わっているなどと主張しなくてもよい状況にあるからです。それなのに無理矢理、ロジャースの考えを強調するので、上手くいっていないのではないかと私は思っています。またカトリックにしろプロテスタントにしろ、基本的にはイエスキリストによって人間は救われると考えているわけで、自然の中で生かされていると考えている日本人とは違うのではないかというのが私の考えです。

5 受容共感派は自説を他人に強いる(2013年9月4日加筆)

日本における「」受容共感派が困るのは状況を弁えずに自説を他人に強いることである。自らがカウンセリングするときに受容共感の手法を用いることよりも、他人のその手法を使わせることの方に力点が置かれているように思う。私自身も多くの問題行動を抱える相談をしてきた。まずは子どもやお母さんの話を受容共感的で友好的態度でお話を伺う。多くの場合にいろいろなところで相談を受けて上手くいかないで私のところに来るケースが多い。ほとんどの場合に、お母さんやお父さんに『子どもの話をよく聞いてあげることが大切です』みたいな指導が行われている。結果的にますます子どもの問題行動がエスカレートしてしまっている。話を聞いてあげたら、問題行動が解決するというものではないからである。また、「」受容共感派の人たちが子どもを上手く導かれないことも多い。このような時に、受容共感的態度をとらない子どもの保護者・教員・周囲の人たちに責任を負わせてくることがある。たとえば、問題行動をある子どもの危険な行為をしっかりと私が叱っていると、『そういうやり方はよくない』と口出しをする。そのままでは学級崩壊状況になっていったとしても、また受容共感する人がいないからだと主張する。かまわないで、ダメなものはダメと実践を続けていて、子どもの状況がよくなると、『やはり話をしっかり聞いてあげたからよくなった』と自らの手柄にしてしまう。どうしても上手くいかないと、子どもを精神的な異常にしてしまう。
 カウンセリングの方法にはいろいろあります。ある人には効いても、他の人には効かないことがあります。動物セラピーなど私は効果があると思っています。でも毛のアレルギーがあればできないでしょう?受容共感的態度でよい時もありますが、悪い場合もあるのです。自説を他人に強いるのは困ったものです。

私自身も子どもたちの健全育成のために何が出来るかをいろいろやっています。一つは公園緑化活動でこれは15年以上実施しています。平島公園がきれいになり、子どももとても喜んで遊んでいるので、地域の拠点として公園は大切だとの主張をしています。でも他の人に強いてはいません。カプラと折り紙と表現活動を児童館・保育園・幼稚園・小学校などでワークショップをしています。ちょっとしたことでも挫けない子どもになるので、他の人にもやってみたらと勧めています。平島公園で子どもたちが犬と触れ合って優しい心になることが多いので、犬の散歩をしている人に、『危険な犬でないなら、子どもたちに触らせてあげてください』とお願いしています。

説諭説得のやり方よりも、男の子には目そらし方略が良いと感じるので、子ども同士がケンカをしていたら、『あ!カラスがこっちを見ている』などと目をそらさせて、違う活動に誘導して仲良しにさせています。ねちねち『ケンカをなぜしてはいけないか。仲良く遊びなさい』というよりは効果があるからです。自説を強いないで状況環境依存的に物事をやることが必要です。

生活が恵まれなくて、夕飯・朝飯を抜かれていた子どもがいました。学校の担任がおにぎりを毎朝作ってきて食べさせていました。夏休みや春休み・土曜日には、私が朝食を用意していました。ある人が『そういうことをするから、親がちゃんとしないのだ』と批判してきました。批判は誰でもできますが、批判した人は、食事をとることが出来ていない子どもへの具体的な手法を示すことはありませんでした。私たち現場は今、考えられことで、出来ることをやるしかないのです。スマートな評論家は出来もしない原則論を振り回して、現場を混乱させます。

V 反受容共感論で私が考えていること
 1  反受容共感論の立場と手法

さて受容共感を前提としない手法の基本をどのようにしたら、良いかを考えてみたい。哲学は精神と物質を分離し、精神を優位に立たせたときに成立したものである。反哲学論は精神と物質が分離されたものではなくて、一体のものと考えるとの思想である。受容共感論は哲学の立場に立って物質よりも人間の精神が優位に立っているとの基本的立場である。

反受容共感論の立場は反哲学論と一緒で、精神と物質はどちらが優位というものではなくて、相互依存的で有機的関連のもとにあると考えるのが良いと思う。すると、問題行動の原因が子ども本人の精神的な思考過程にあるだけではなくて、その子どもをめぐる主体的客体的あるいは環境的状況的な問題ととらえることになる。

たとえば、すぐに切れてしまうような問題行動がある場合に、その子どもの精神的な問題からだけではなくて、それらをとりまく環境的状況的な問題がどこにあるかをとらえることが必要となるであろう。その上で、問題行動をネガティブにとらえるだけではなくて、ポジティブにとらえたらどうなるかを考えてみることが必要である。切れるとのことは、まったく反応しないよりはベターなのである。まったく反応しなければ生きていないことになる。暴力を振るうのならそれをボクシングや相撲や剣道へと昇華する方向をさぐればよいであろう。物を壊したいとの衝動であれば、怪我のないように解体業のプレジョブをさせたらどうであろうか?窃盗なら、魚釣りやウサギ捕りなどをやらせることもできるであろう。ネガティブなことをマイナスと思うよりはポジティブな方向へと発展させることがベターであると私は思う。

物質と精神が相互依存的で有機的関連があると考えれば、同級生とのいざこざの原因を深く追及することをずいぶんとネガティブな発想であるように思う。人間関係のいざこざが存在するにも関わらず、星は瞬き、地球は周り、月は満月となる。草木は緑となり、花はきれいに咲く。鳥や虫も歌う。このような自然の四季の移り変わりはずいぶんと人間をポジティブにさせてくれる。自然と人間は共生していることを感じさせる体験を多くさせたいものだ。

精神が優先する考えでは、人間の「」知能が高い人が優位となる。しかし人間の知能は多重である。言葉は遅れているけれど、抜群の対人関係を持っている人もいる。数学が苦手だが、運転はうまい人がいる。他人のことを考えることができないが、絶対音感のすごい人もいる。宇宙のことなどを直感的に理解できるが、常識はあまりない人もいる。いろいろな人がいて、それぞれの良い面を伸ばすのが良いと私は思う。ですから反受容共感論の立場は多重知能理論を推し進める立場でもある。苦手なことを無理にさせるよりは得意なことを見つけ、伸ばすことの方が良いであろう。

物質と精神は有機的関連にあるから、形から入ることも大切となる。折り紙を折るにも11枚折り目正しく丁寧に折ることを、自主性創造性以上に重視する。同じことを繰り返して量的経験を深めることが質的転換になると考える。ですから、上目線ではなく子どもとUnderstand(=理解する=下目線に立つ)しながら、基本的な努力を続ける。また自然を大切にする活動を子どもとともに行う。つまりゴミ拾い・草取り・清掃をみずからやる。自然と共生していることは、自然をきれいにする活動を楽しくできることです。

こんな立場を私はとりたいと私は思っています。

 

  2  小太郎他犬たちのことと反受容共感論

受容共感の考えは基本的に人間のことを相手にしていると思う。基本が話を聞いてやり、その話を否定的にとらえないでポジティブな方へと持っていくとの考えだからです。話が出来ない犬には基本的に適応できないことになります。

でも犬でも考えていることはわかるし、こちらの話すことは伝わります。小太郎君5歳の黒色のフレンチブルドッグはとても賢い男の子です。3歳になる人間の妹がいて、妹の面倒見がとてもよい子です。いつも妹のベビーカーに乗って、妹の砂遊びの見守りをしています。私が「小太郎ちゃんご苦労様。散歩にいこうか?」と声かけると喜んでベビーカーから下りてきます。まったく吠えないし、他の子どもに危害を加えることはありません。小太郎君と出会って、吠えまくる犬たちを見ると「君たちは僕と同じ仲間ではないのだね」みたいな不思議な顔をしてみています。妹のことは絶対に守り、自分のことよりは最優先するのが小太郎君です。でもサフランの犬パンだけは別です。小太郎君が先に食べ始めたのを妹も好きになりました。お母さんが、犬パンを買ってきて、半分を小太郎ちゃんに半分を妹にあげます。小太郎君は手で持てないので、すぐに食べ終わります。妹は手に持ってゆっくり食べます。小太郎君は自分が食べ終わった後に「それは俺のパンだよ」と言って、妹のパンにかじりつきます。妹は、手ではねのけて、小太郎君がかじったパンを悠然と食べます。この時だけは小太郎君は悔しそうです。

125CCのバイクで街を走っていたら、101匹のわんちゃんに出てくるダルメシアンを散歩させているお母さんに会いました。バイクを停めて話しかけました。

「この娘の前に飼っていたゴールデンリトリーバーはとても賢い子でした。叱られても上手く逃げる方法をしっていました。このダルメシアンは7歳でもう大人なのですが、頭の中は人間の3歳程度です。ダメと叱ると逃げないで素直に従います」と話していました。

1歳の大型犬でボルゾイであろうと思われるセロリとかいう犬がいます。公園に遊びに飼い主と来ていました。1キロ先の家を抜け出して入れなくなり、困って平島公園に助けを求めてきました。保健所に連絡をしたりして飼い主を探してあげました。それから平島公園にやってくると、私を見つけて、『助けてくれてありがとうございました』と言いながら走ってきます。背が高い犬に飛びかかられて大変ですが、嬉しいです。

人間と一緒で犬もいろいろです。

受容共感してあげればよい犬もいます。そうでない犬もいます。一つの手法にこだわらないことが必要と思います。人間も一緒です。


  3 守破離とミメーシス

技術や技や学問を習得するために、しっかり考えることも必要である。しかし、門前の小僧習わぬ経を読むと言われるように繰り返しの中で学習することもたくさんあるのである。日本では守破離と言われて、すぐに独創的なことを考えるのではなくて、文化や伝統や学問体系に守って習得する段階がある。これは同じことの繰り返しになるが、この繰り返しの量が大切と考えている。次に量の繰り返しで基本をマスターしたら、それを打ち破ってまた別の独創的な展開を図ることが大切のとの考えである。小学校でも漢字ドリルや算数ドリルの繰り返しの学習が大切と言われている。また公文式学習方法などはこの一つである。私は、学習が遅れている子どもに繰り返しに復習することを勧めていた。問題行動の裏に授業についていけない→授業が楽しくない→友達に馬鹿にされる→騒ぐ→叱られる→自尊心の欠如→さらに問題行動を激しくするとのパターンが多くあるからである。基本的な繰り返しの学習を大切にすることが必要である。

日本では守破離とのことになるが、西欧的に言えばミメーシスとのことである。

ミメーシス(ギリシャ)m?m?sis提供元:「デジタル大辞泉」)

芸術理論上の基本的概念の一。芸術における模倣。自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。

他者の言語や動作を模倣して、そのものの性質などを如実に表そうとする修辞法。

動物の擬態の一。尺取り虫が小枝に似せる例などのように目立たない色や行動をして捕食者の攻撃を回避する擬態。隠蔽的(いんぺいてき)擬態。

 西欧においても考えるだけではなくて基本的な模倣や繰り返しが大切と考えられるようになった証拠ではないかと私は思う。

 守破離やミメーシスの考え方を早急に取り入れて、基本をしっかり繰り返し実施しないと日本の教育の良さがどんどんなくなっていくのではないだろうか?つまり、週休二日制ではなくて、前の学校週休1日制にして、十分な活動の時間を確保することが必要であると私は考えている。


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